それは30年近く前の、12月の最初の週末のことです。
「今日、ホワイトイルミネーションの点灯式があるんだけど、一緒に行かない?」
午前中の講義が終わり、大講堂から学部棟へと続く長い廊下を歩いていると、後ろからそんな声が聞こえました。
「ホワイトイルミネーション?」
「あなたは札幌の出身じゃないから知らないかもしれないけど、12月になると大通公園がイルミネーションでライトアップされるのよ。1丁目のテレビ塔から8丁目までずーっと。その点灯式が今日の4時からあるの」
「今日は午後の講義はないから、いいんだけど・・・」
「わたしも今日はこれで終わりだから、ご飯食べてから、映画でもみて時間つぶせばいいじゃない」
彼女は同じ文学部のクラスメイトでした。小柄だけれど僕たちの年代にしてはちょっと大人びた感じの女の子だったので、僕が彼女と直接言葉を交わしたことは、今日までそれほど多くはありませんでした。
なんか心配されてるのかな、それとも、ちょっと同情されてるのかな。
学食へと向かう人波から外れて、札幌駅に抜ける裏門に向かってまっすぐに進んでゆく彼女に遅れないように歩きながら、僕はそんなふうに思っていました。
彼女は、僕がつい2週間ほど前まで付き合っていた女の子と仲の良い友達でした。
別れがあまりにも突然だったせいで、僕はいろいろな物事との距離感をうまくつかめなくなってしまったようでした。毎朝起きると、とりあえず大学の講義に出席し、決められた時間割りが終わると、夜になるまであてもなく街を歩き続けているだけの生活が続いていました。
初めて迎える北海道の冬は、想像以上に厳しいものでした。
けれども、たったひとり、アパートの部屋の中で感じる寒さにくらべれば、どんなにそこが凍てつこうと、商店街のアーケードに飾られたツリーの灯や、街角から流れるクリスマスソングがある分だけ、外に出たほうが少しは生きている心地がするような気がしたのでした。
街なかから少し外れたコーヒーショップでランチを食べている間も、僕たちはあまり口数多くは話しませんでした。ときどき視線が合うと、彼女はちょっと困ったように微笑むだけでした。
街はずれにある古いリバイバルシアターで『カイロの紫のバラ』という映画を見ました。
僕は映画館の固い椅子に座りながら、相変わらずぼんやりとスクリーンを眺めているだけでした。彼女は、最初のうちは身動きひとつせず、まるで眠ってしまったかのようなでしたが、途中から静かに泣いているようでした。
不思議なことでしたが、そのことに気づいた瞬間、何週間ぶりに、悲しい、という気持ちが僕に戻ってきたのでした。
僕の隣で涙を流している人がいる。
それは、なんてあたたかいんだろう、と思いました。どんなに厚着をして、どんなに暖房を炊いても解けなかった氷の塊が、急激に小さくなっていくようでした。
映画館を出ると、15時半を少し回っていました。
いつの間にか降り出した雪が、車道のアスファルトや歩道のわきに積み上げられた汚れた雪を覆い隠し、あたりは音のない白い世界へと変わりつつありました。
「ちょっと急がないと」
そう言って、やや早足で歩き始めた彼女のマフラーに、白い息と白い粉雪が舞い積もりました。
大通公園のイルミネーション会場の周りにはすでにたくさんの人垣ができていましたが、もうまもなくカウントダウンが始まろうかという直前、彼女は迷うことなく飛び込むようにさっぽろテレビ塔展望台へのエレベーターに乗り込みました。
「いま、うまく点灯すれば、きっといいことあるよ」
僕たち2人だけを乗せたエレベーターが動き出すと、彼女はそんなことを言いました。
「もう展望台の上も人でいっぱいだから。いまこのエレベーターで昇っているときが、私が考えた一番のベストの瞬間」
10秒、20秒、30秒・・・エレベーターがテレビ塔のちょうど真ん中にある大きな時計を過ぎ、まもなく展望台に到着しようかというその瞬間、12月の午後4時の札幌の街並みが濃灰色のコートを脱ぎ捨て、何百万個もの灯が、空中に生まれ放たれたのでした。
ホワイトイルミネーションを一緒に見に行ったふたりは別れる、っていう伝説もあるみたいなんだけど、今日の点灯式は特別だったから、きっといいことあるよ、わたしたち。
彼女はそういってまたちょっと困ったように笑いました。
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皆さんにも、よいクリスマスが訪れますように。
<了>
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