その昔、『別れ道』という不思議な名前のバス停の前にあるマンションに住んでいたことがありました。
それは長く長く続いてきた一本道が、名残惜しくも意を決したように右と左に、あるいは東と西に別れる、まちはずれの一角のような名前でしたが、実際は、東京と埼玉の境の、なんの変哲もないベッドタウンの狭い県道にあるバス停でした。
僕はその頃、毎朝7時ちょっと過ぎのバスに乗り、最寄りの私鉄駅で準急電車に乗り換えて都内の職場まで通っていました。それはまだ都会での仕事に慣れなくて、風の吹くままにふわふわと漂いながら、だんだんと空気が抜けて縮んでいく、青い風船のような日々でした。
向かい側のバス停に、毎朝彼女の姿を見かけることに気づいたのは、僕がそこに住み始めてから一ヶ月くらいたった頃のことでした。
平日の朝、僕がバス停に並ぶと、まるで僕が家を出るのをどこかで見ているかのように、彼女が向こう側のバス停に現れるのでした。
『別れ道』の停留所は、なぜかあまり人が並んでいることが多くなく、道路をはさんではいるものの、僕と彼女の二人きり、ということがよくありました。
彼女はいつも両肘を身体にピタッと付けて、控えめな感じで文庫本に目を落していました。
向こう側のバス停は、埼玉方面へ行くバスが発着するところでしたので、彼女はおそらくバスの終点の街か、あるいはそこから電車に乗り換えた埼玉のどこかで働いているようでした。
最初は何とも思わなかったのです。
彼女は、毎朝たまたまよく合う、ごく普通の女の子でした。
ところが、いつの間にか彼女と向かい合う毎朝の2、3分が、僕の生活の中で、だんだんと重みを帯びてくるようになってきたのです。
ごくたまに彼女がいつものように姿を現さない朝、あるいは僕の仕事の関係で、どうしてもいつもと違う時間に家を出なければならない朝がありました。そんな日はなんだか1日が長く、落ち着かないのです。
朝から厳しい日差しが照り付ける夏の頃から、自分でも気づかないうちにぼんやりと彼女を見ていることが多くなりました。彼女が突然顔を上げたりすると、真正面から視線がぶつかってしまって、僕は慌ててまぶしいふりをして、それを8月の太陽のせいにしたりしました。
彼女と偶然目が合うと、どちらからともなく会釈を交わすようになったのは、午前7時の空気がようやくひんやりと感じられるようになってきた、10月も下旬の頃だったと思います。
ちょっと微笑みながら、でもしっかりと僕の瞳をとらえて頭を下げる彼女に対し、僕は自分でも本当に不器用だと思うような中途半端な会釈しかできずに、毎朝ちょっとした後悔の念に駆られてばかりいました。
僕と彼女との間には、路肩もほとんどないような、片側1車線の県道があるだけでした。前後の信号が赤になって車の通りが途絶えてしまえば、さほど大声を出さなくとも、ひとことふたこと話はできるはずでした。
でも僕にはその、ほんの5mの距離が、1万光年の遠くのように思えてなりませんでした。
道のあちら側とこちら側に分かれているだけで、こんなに遠いものなのか、と思いました。
隣にいれば、会釈だけでなく、何気ない会話が始まっていたかもしれません。一緒の方面のバスに乗れば、朝の2,3分どころではなく、もしかすると毎日の出来事を全部話しても余るくらいの時間が共有できたかもしれません。
でも、僕と彼女の間にある道は、まさに『別れ道』でした。
バスが来れば、僕は南へ、彼女は北へと向かわなければならないのです。
今日こそは県道を横切って、向こう側のバス停の、彼女の横に並んで、話しかけよう。
そしてそのまま埼玉行きのバスに乗り込んでしまおう。
何度となくそう思いましたが、結局、僕は毎朝、不器用な会釈を繰り返すばかりでした。
そうするうちにも彼女の吐息の色がだんだんと白く、濃くなってゆき、やがて凍りつき、新しい年がやってきました。
「今日は寒いですね」
目の前を通り過ぎる車が途絶えたとき、そんなふうに彼女が初めて僕に声をかけてきました。
それは前日までの春を思わせる穏やかな空気が一変して、厳しい寒さが戻ってきた3月下旬のある朝でした。
彼女はそういうと、暖かそうな毛糸の手袋をした両手を大げさにこすり合わせながら、何かを試すようにちょっと上目づかいに僕を見ていました。
「そうですね」
突然の出来事にびっくりしたため、不自然な間のあとに出てきた僕の第一声は、ぼそぼそとした、情けないものでした。
さあ、勇気を出して続きを。
そう思えば思うほど、それに続く言葉が出てこないのでした。
僕が何か話そうとしていたのに気づいたのか、彼女はしばらく何かを待っているふうでしたが、やがて意を決したように小さくうなづくと、あのう、と話し始めました。
先の交差点にある信号が変わって、朝の通勤に向かう車が、僕と彼女の会話を引き裂くように通り過ぎていきます。
あのう、わたし・・・と彼女がもう一度声を張り上げたところで、埼玉行きのバスが、僕の視線の先から彼女の姿を奪うと同時に、今度は東京行きのバスが、僕の目の前に立ちはだかりました。
乗り込んだバスの中から、向こう側の車内に彼女の姿を探そうとしましたが、間一髪の差ですでに埼玉行きのバスは『別れ道』のバス停を発車した後でした。
その日を境に、彼女がバス停に現れることはなくなりました。
僕は毎朝時間を変えてみたり、始発から遅刻ギリギリまで待ってみたりしましたが、そこに彼女の姿を見つけることはできませんでした。
僕の知らないうちに桜が咲き、そして散り、『別れ道』に住んでから2年目の日々が始まりました。
4月の、本当に平和で穏やかな朝でさえも、彼女が消えたバス停は、僕にとっては色彩を持たない人々が暮らす、無味乾燥な世界でした。毎朝、このバス停での2,3分が、僕にどれだけの勇気と力を与えてくれていたかを、今更ながら実感する毎日でした。
彼女の姿を見つけたのは、いっそのこと、もうバスに乗って通勤するのはやめてしまおうか、と思い始めていた、ゴールデンウイーク前のことでした。
彼女は、僕がバス停の前に立つと同時に、あの頃のように、どこからともなく僕の目の前に現れると、ちょっと微笑みながら僕の目をしっかりと見て、頭をちょこん、と下げました。
いつもと違ったのはそのあとのことです。
車の往来が途絶えたのを見ると、彼女が小走りに県道を渡って、こちら側にやってきたのです。
彼女は僕の隣りに並ぶと、あの日の続きのように、あのう、わたし、と話し始めました。
あのう、わたし、実は転勤で引っ越しちゃったんです。
4月から埼玉の北部の、すごく山深いところの中学校に異動になって、ここからは通えなくなっちゃったんです。
だけどあの時、お別れも言えずに立ち去っちゃったので、ずっとそれが気になってたんです。
あのう、わたし、きっと3年で戻ってくると思うんです。
そうしたら、また毎朝、このバス停で会えますか?
もしわたしが戻ってきた時まで、あなたがこうして待っていてくれるのなら、もう毎日『別れ道』ごっこなんかしないで、ずっと一緒にいてくれませんか?
<了>
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