台風の悪戯で、どこからか飛ばされてきた小枝やら葉っぱやらが、その狭い路地にも散らかっていたのかもしれません。
彼女は、白衣姿でしゃがみこんだまま、一心不乱に何かを集めているように見えました。
あまりにも夢中になっていて、その白衣の中からスカートの奥が露わになりかけていることも気づかないようでした。あるいは、こんな台風のすぐあとに、こんな細い路地を誰かが歩いてくるなんてまったく警戒していなかったのかもしれません。
僕は西予の古い町並みを歩きながら、宇和米博物館という場所に行こうと思っていたのですが、右へ左へと好き勝手に歩いているうちに、いつの間にか古い町並み特有の、心地よい迷路へ入りこんでしまったようでした。
突然現れた彼女と、その目のやり場に困るほどの姿にびっくりしつつも、僕はできる限り平静を装って彼女の横を通りすぎようとしました。
「こんにちは」
彼女は何もかも見透かしたように立ち上がって僕を呼び止めました。
「米の博物館…ですよね」
見透かされたのはそっちの方か、と少しほっとした僕が、でもどうして、という表情をしたのでしょう、彼女はちょっと笑みを含んだような声でこう言いました。
「ここで迷っている人は、いつもだいたい米の博物館を探しているのよ」
彼女は町なかにある小さなクリニックの看護師でした。
今日は台風明けで患者さんも朝から全然来ないので、台風のあとかたづけで掃除をしてたのよ。
これが終わったら、もう早引けしちゃおうと思って。
彼女は白衣の皴をゆっくりと直しながら、そうだ、と言いました。
「日本一長い廊下の掃除、私と勝負してみます?」
宇和米博物館は、南予の米どころ宇和町の米づくりの歴史を伝える博物館です。それだけなら何の変哲もない施設なのですが、ここには一つ、他のどこにもない特徴があるのです。
旧宇和小学校の古い木造校舎をそのまま使っているこの博物館には、日本一長い109mの木造廊下が残っていて、そこで雑巾がけのレースができるのです。
でも私、宇和小学校の時、3年連続で雑巾がけ競争校内一番だったので、早いわよ。
微笑み交じりにそう言う彼女の瞳には、確かに負けず嫌いな女の子に特有の、独特の力強さがありました。
僕の目の前にいるのは、南予の蜜柑のように甘酸っぱくって瑞々しい、20数年前の小学校6年生の女の子でした。
「毎年ここでZ-1グランプリっていう雑巾がけのレースがあって、優勝者の過去最高タイムは17秒38。距離は109mあるからなかなかのスピードよね」
玄関から入って一番奥、スタート地点に立つと、その廊下は確かに暗く、長く、先端のゴール地点は霞んで見えないほどでした。
「ちなみに私の自己ベストは23秒15、小学校6年生の時の校内大会の時の記録」
そう言って彼女は木枠の窓から見下ろせる鉄筋のモダンな建物にちらっと目を向けました
「翌年から新校舎になったので、私が最後の優勝者になっちゃったんだけどね」
109mを雑巾がけで23秒ちょっと、確かに早いタイムです。
僕は最近は全力疾走さえしたこともないので、109mを途中で止まることなく雑巾がけすることさえ難しいかもしれません。
それでも、こうして彼女とスタート時点に並んで立つことになってしまったからには、この勝負、断るわけにはいかないような気がしたのです。
彼女は白衣のまま、準備運動もせずにじっとゴールの方向を見据え、僕の準備ができるのを待っているようでした。
僕が覚悟を決めてうなずくと、彼女は白衣の裾をするすると上にあげて、ひざ上20㎝の状態にし、静かにクラウチングスタイルのスタート姿勢をとりました。
博物館のスタッフも慣れたもので、スタート号令用の小さな台に立ち、運動会用のピストルを高く掲げます。
一瞬の間。
スタート合図のピストルが長い廊下にこだまする音。
彼女のスタートは見事でした。
30年以上遠ざかっている雑巾がけに戸惑う僕をしり目に、あっという間に加速してトップ スピードへとギアが入ってしまったようでした。
顔を上げると、極限までめくりあげられた彼女の白衣の裾の奥に、さっきも見たような何かが、僕の目の前にちらついていました。
僕は、酸素不足と目の前の光景のまぶしさで頭がクラクラしていました。
それでも50mを過ぎた頃からだんだんと足の動きや腰の角度、腕への体重のかけ方のバランスがわかってきたような気がしました。
彼女の姿が近づいてくるにつれ、胸の鼓動が高まるのがわかりました。そのまま1m後ろをいつまでも並走したい思いを断ち切って、ラストスパートをかけました。
ゴールのすぐ先には廊下の突き当りの壁があるため、勢い余って衝突してもいいように柔らかなクッションが敷かれています。
どっちの雑巾が先にゴールラインを越えたのかは、わかりませんでした。
ただ、僕と彼女は体操の時間に使われていたような白くて埃くさいクッションにそのまま勢いよく突っ込んで、重なり合うように倒れこんだのでした。
やるじゃない、私の負けよ。
彼女は僕から体を離すように仰向けに転がると、ゴールの判定員から結果も聞かずにそう言いました。
悔しいけれどここに来る普通の観光客で、私とこんなにいい勝負したの、あなたが初めてよ。
彼女は仰向けのまま僕の右手をとると、ゆっくりと立ち上がって、白衣の裾をもとの位置に戻して言いました。
私の家にも長い廊下があるのよ。長いと言っても20mくらいだけどね。
続きはそこでやりましょう。
彼女の白衣の裾の中に隠れている何かをもう一度確かめたくて、僕は鉛のように重くなった体を、再び持ち上げたのでした。
【了】
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