1万円で行ける旅の記事を書いてほしい。
場所はどこでも好きなところでかまわない。
とあるカメラ雑誌からそんな依頼があったのは、猛暑だった今年の東京にもようやく朝晩の涼しさが感じられるようになった10月半ばのことでした。
発売は11月20日、東京にも木枯らし1号が吹く頃です。
その発売日を聞いて、僕が思いついた場所はただ一つ、栃木の足利にある渡良瀬橋しかありませんでした。
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僕がまだ北海道の大学にいた頃、同じクラスに神奈川出身の女の子がいました。同じ関東から遠くの北海道に来ている同士で、たまたまアパートが近かったということもあり、僕たちはよく学食で一緒にランチをしたり、ときどき僕の彼女と彼女の彼氏を交えてダブルデートをしていました。
そう、僕は彼女のことをとても好きで、彼女もたぶん僕のことを同じくらい好きだったのだと思います。けれどもそれは恋人としてではなく、本当に仲のいい友達で、という意味でした。
彼女と僕が当時なぜ恋愛関係にならなかったのかは今でもよくわかりません。
いろいろなタイミングや天の導きがあれば、そうなっていても全くおかしくはなかったと思いますが、結局のところ、僕たちはそうなる前にすでに仲良くなりすぎていたのかもしれません。
4年生になって就職活動をはじめた僕らでしたが、彼女は父親が国鉄にいた関係で、発足間もないJRに入社することになりました。今でこそ駅の窓口や車掌、運転士まで女性が活躍していますが、当時はまだJRに入社する大卒の女性自体が珍しかったと思います。
同じく関東に戻って就職し、都内のオフィスに配属された僕に、4月のある夜、彼女から電話がかかって来たのでした。
「研修が終わって私、高崎支社に配属になったの」
高崎のある群馬は、僕が高校時代まで過ごしていた場所だったので、今度実家に帰るとき遊びに行くよ、と僕が言うと、違うの、と珍しく強い口調で彼女が答えました。
「ところが勤務先は足利なのよ。ねぇ、足利なんて場所、知ってる?」
「群馬の隣の栃木にあるから聞いたことはあるけど、行ったことはないなあ」
僕がそう答えると、そうだよねー、と言って彼女は受話器の向こうでしばらく絶句していたのでした。
それからです。
僕が2ヶ月に一回ほどのペースで足利に通うようになったのは。
渡良瀬橋は東武鉄道の足利市駅から徒歩で5分、彼女の最初の勤務地だったJR足利駅からは15分ほどの場所にあり、渡良瀬川によって南北に隔てられた足利の町をつなぐいくつかの橋のうちのひとつでした。
彼女が足利に住んでいた頃はまだ森高千里の「渡良瀬橋」は生まれておらず、足利は栃木県第3の都市でありながら、博学だけどおっとりして欲のない老人のように静かな町でした。
彼女が住んでいた寮があったのは渡良瀬橋のすぐ北側、東西に長く延びた足利の市街地の西端、背後に足利織姫神社の丘陵が迫った住宅街でした。
「せっかく足利に来てもらったのに何もないところでゴメン」
彼女はJRの足利駅から歩いてきた僕が、渡良瀬橋のたもとに着くたびにそう言いました。
そう、彼女の仕事上、僕たちは足利駅では待ち合わせができなかったのです。
「東武線で来ればいいのに」
いつも彼女はそう加えて言いました。
JRの足利駅を通るのは高崎と小山を結ぶ両毛線というローカル線で、特急もなく4両編成の普通列車が1時間に1、2本走っているだけでしたが、東武線の足利市駅には浅草から直通する特急が何本もあり、都内からアクセスするには圧倒的に東武が便利でしたが(おそらくそれは今も変わりません)、JRで働く彼女に会いに行くのに東武線で行くわけにはいかない、と当時の僕は思っていて、行きだけは必ずJRで彼女のもとに向かったのです(帰りは時間短縮のため東武でしたが)。
日本で最古の学校と言われる足利學校、鎌倉時代に足利氏の邸宅であった鑁阿寺(ばんなじ)を見てしまうと、当時の足利にはほかに見るべきところはありませんでした。
そんなわけで僕と彼女は、よく意味もなく足利の町を歩き回りました。足利駅前から東西に延びるメインストリートの喫茶店で話し疲れると路地裏を巡り、古い和菓子屋でもなかを買い、夕方、渡良瀬橋の夕日に見送られながら、僕は橋を渡って町の南側(東武線足利市駅方面)へ、彼女は北側(JR足利駅方面)の寮へと戻ったのでした。
そう、「渡良瀬橋」は、僕たちにとっては「お別れ橋」だったのです。
会えない月には彼女から電話が来ることがありました。
彼女の寮の部屋には電話がなく、共同電話ではゆっくり話せない、ということで、よく公衆電話の受話器越しに彼女はいろいろな話をしてくれました。
―ねえ、知ってる?駅には早朝・深夜勤務のための仮眠室があるんだけど、目覚まし時計じゃないのよ。セットした時間になるとベッドの上半身の部分が自動でせりあがってくるの。これって絶対に寝過ごさないんだけど、ずごくいい夢見てた時とか、いきなり現実に戻されて放心状態になっちゃうのよね。ねぇ、ちょっと。なんでいい夢って何?って聞いてくれないの?―
―今日は辛かった。。。人身事故で朝から不通だったり大幅な遅延が続いてたんだけど、お客さんに何回も怒鳴られたり詰め寄られたりしてね。もちろん気持ちはわかるんだけど、現場の人は120%必死で復旧活動してるんだよね。私から見るとこんな事故が1時間で復旧しちゃうのか、って思うんだけど、お客さんからしてみたら1時間もかかるのか、ってなっちゃうんだよね。うん、仕方ないんだけどね―
北海道に彼氏を残してきた彼女も、北海道に彼女を残してきた僕も、お互いフリーではなかったので(それにお互いの彼氏彼女もよく知っていたし)、以前と同じように恋愛感情はないつもりでしたが、時間が経てば経つほど、お互いの遠距離恋愛よりも、2か月に1度とはいえ、こうして実際に会える相手に少しずつ情が移っていってしまうような気がしました。
もちろんそんなことは怖くて言い出せなかったのですが。
それは僕が足利に通い始めてから4度目か5度目にあたるときだったでしょうか。
「今度はゆっくりお酒を飲みながら話したいので、足利に泊まっていきなよ」
ある時彼女が受話器の向こうでそう言ったのです。
その日はもう間もなく東京にも木枯らしが吹こうかという、11月のよく晴れた土曜日でした。
栃木でも群馬に近い地域にある足利では、北の山から時折冷たい空っ風が吹き付けていました。
彼女が予約してくれた市内のホテルにチェックインして部屋に荷物を置きにあがると、真白なシーツがピンと張られた2つのベッドがありました。
うちの寮は異性を部屋に入れられないから。
彼女はうつむき加減にそう話すと、窓辺に行ってカーテンを開け放ちました。
もしお酒を飲み終わったあとも遅くまで話すんだったら、少し広めの部屋の方がいいと思って。
窓の外には午後3時の太陽と、遠くの方にまだ明るい渡良瀬橋が見下ろせました。
今日はちょっと一緒に行ってほしいところがあるの。
そう言って彼女が向かったのは足利公園のすぐわきにある小さな社でした。
八雲神社、と書かれた鳥居をくぐると、彼女はそのまま本殿に進み、小さな賽銭箱に小銭を投げ入れて何事かをお詣りしました。
何をお詣りしたの?
と聞こうとしたのですが、なぜだかその答えを聞いてはいけないような気がして、僕は黙って彼女の少し後を歩きながら渡良瀬橋の方へと戻りました。
いつもは別れ間際でゆっくりと見ることのなかった渡良瀬橋からの夕日でしたが、この日はこの夕日が何かの始まりになるような気がしました。
河原に降りると、彼女がそっと僕の左手を掴みました。
一面に生い茂ったススキの向こうに無骨な渡良瀬橋がシルエットとなって浮かび、その向こうに燃えるような橙色になった空とまあるい夕日がみえました。
僕にもたれかかるように身を預けた彼女の髪が冷たい風に吹かれて僕の頬を撫で、左の二の腕にまだ固そうな二つのふくらみを感じれば感じるほど、僕はその夕日から目を背けることができませんでした。
彼女はやがて僕の正面に回り、両腕を僕の首に回したかと思うと、そのまま僕に身を預けるように倒れこんできました。
すごい熱でした。
いつの間にか彼女の顔は激しく紅潮し、その額はびっくりするほど熱く火照っていました。
ごめんなさい。朝から少し熱っぽかったんだけど、せっかくあなたが泊まりに来てくれる日だったから。。。
でも、ちょっと冷たい風にあたりすぎちゃっただけだから。
フラフラと歩きながらそう話す彼女を、僕は寮の前まで送り届け、ひとりあの真っ白なシーツが待つホテルの部屋へと戻りました。
会えない月の彼女からの電話は、その日以来途絶えてしまいました。
森高千里の「渡良瀬橋」という歌がヒットしている、という話を風の噂で聞いた頃には、僕はもうその電話を待つことをあきらめてしまっていました。
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森高千里の「渡良瀬橋」をめぐる旅をテーマにしたい、といった僕に編集者の女性はとてもいい、といいました。
カメラ好きのうちの雑誌のターゲットにぴったりだし、今にも頭の中にメロディが流れて来そうなテーマですよね。
10月下旬の金曜日、朝8時。
あの時と同じように渡良瀬橋のたもとに立った僕の横を、何人もの通学の高校生たちが自転車で通りすぎていきました。渡良瀬橋はいつの間にかきれいなシルバーに塗りなおされていましたが、武骨で不器用そうなその容姿はあの頃とあまり変わらないような気がしました。
あの頃と変わっていたのは、僕たちがよく待ち合わせをしていた渡良瀬橋のたもとに「渡良瀬橋の歌碑」ができていたことでした。
歌碑の横には歩行者用信号機のボタンのようなものがあって、それを押すと森高さんの渡良瀬橋のフルコーラスが流れるようになっていました。
通7丁目。
あの頃、彼女が住んでいた寮の近くに行くと、床屋の角にポツンと電話ボックスがありました。
会えない月に彼女が100円玉を握りしめて、僕に楽しいことや悲しかったことをとりとめもなく話してくれたのは、きっとこの電話ボックスだったに違いありません。
足利はあのころと違って、足利學校や鑁阿寺以外にも見どころがたくさんある人気の観光スポットになっていました。
サミットでも振舞われるほどの極上ワインを、天使のような知的障害者たちが心を込めてつくるココファームワイナリー。
奇蹟の藤棚が、CNN世界の夢の旅行先10か所に選ばれた足利フラワーパーク。
渡良瀬橋の夕日の時間が来るまで、あの頃には行ったこともなかったそんな場所を、僕はひとりで歩きました。
夕暮れ前、八雲神社に行きました。
足利市内にはたくさんの八雲神社がありますが、あの時僕と彼女が最後に行った、この足利公園わきの八雲神社が一応「渡良瀬橋」で歌われた八雲神社、ということになっているようでした。
あの時彼女がお詣りしていたのはどんなことだったんだろう、そう思いながら境内を歩いていると、渡良瀬橋が描かれた、たくさん絵馬の中に、僕は偶然それを見つけたのでした。
あの人と一緒に、もう一度渡良瀬橋の夕日を見られますように。
早くあの人のそばで、毎日笑ったり泣いたりしながら暮らせますように。
昼間はあんなに晴れ渡っていた空には、いつのまにかどんよりと雲が広がり、残念ながら今日は渡良瀬橋からの夕日は見えそうにありませんでした。
あの頃と同じように渡良瀬川の河原に降り立つと、一面のススキの向こうに渡良瀬橋が見えました。
あの時、僕はあのまま彼女を真白なシーツのベッドへと連れ帰るべきだったんだろうか。
そしてそっと一晩、隣りに寄り添ってあげるべきだったんだろうか。
あの頃と同じように、東武線の駅へと向かうために渡良瀬橋を渡りながら、僕はそんなことを考えていました。
もう一回、渡良瀬橋の夕日を見てみたいな。
僕たちにとって、渡良瀬橋の夕日はいつもちょっと切ない思い出ばっかりだったので、このままにしておくわけにはいかない。
もう一回、彼女と一緒に渡良瀬橋の夕日を見よう。
そう思って足利の町を振り返ってみると、まだこのきれいな街並みのどこかに、あの時と同じようにひっそりと彼女が暮らしているような気がしました。
<了>
「渡良瀬橋(PV)」(森高千里 オフィシャルチャンネル)
「渡良瀬橋と私」(森高千里 オフィシャルチャンネル)
この時僕が書いたものは、下記の単行本に入っています。
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渡良瀬橋への旅
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