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キツネの商店街  ~「手袋を買いに」へのオマージュ【北海道・大麻銀座商店街】

金曜日の夜から降り続いていた雪が、少しずつ少しずつふわふわとした真綿のように軽くなってゆき、ちょっと頼りなさそうに中空を舞いはじめると、2月最後の日曜日の朝の光はその1片1片の短い命を惜しむかのようにキラキラと照らしてあげているかのようでした。

久しぶりに外に出られたことがうれしくて、少年は町を抜けて森のほうへとどこまでもどこまでも歩いていました。

原野を開拓してできたその土地は、森と町との境がくっきりと分かれていました。そこには人が住む場所と動物たちが住む場所が少しずつ交わりあっていくような緩衝地帯はなく、きっと空から見たら、そこにはくっきりと一本の境界線が引かれているかのように見えることでしょう。まさにその境界近く、新しい家が立ち並ぶ住宅街のどんづまりのあたりで少年は不思議な商店街に迷い込んでしまいました。

真白な建物が向かい合わせに並ぶ狭い路地の両脇には、真白な雪が山のように積み上げられていて、キラキラと舞い降りる雪が屋根や看板の上でその最後の使命を果たし終えていました。まだ朝も早かったせいか、人の気配はまったくありませんでしたが、床屋のサインボールや布団屋の店先ではためく幟、すずらんの花のようにもみえるベル型の電灯からは、まるで母の体温のようなぬくもりを感じるほどでした。

その30メートルほどの商店街のすぐ向こうは森でした。なんとなくそこから先は入るべき場所ではないような気がして、少年はそのまま町へと戻ってきたのでした。

「きっとキタキツネが手袋を買いに来そうな商店街だったのね」

月曜日の学食で、少女はそんなことを言いました。

キタキツネ?手袋?

言われてみれば、確かにそれはあながち外れてはいないような気もしましたが、なぜ突然そんなたとえができるのか、少年は半ば感心し、半ば不思議な気持ちでぼんやりと少女の白い指先を見つめていました。

「だって新美南吉の『手袋を買いに』の世界感そのままだもん」

そうだった、と思いました。

少年と少女は文学部の国語国文学研究室の友達で、少女の専攻は童話文学だったのでした。

「その話、あんまり覚えてないけど、むかし教科書に出てきたお話だったっけ?」

少年がそういうと少女はひどい、と言って笑いました。

「でもなんだか素敵なお話。行ってみたいな、その商店街に」

「いいよ、今度行ってみようよ」

「今度じゃなくて、今日行けるかな?」

「今日?今日は夜から家庭教師のアルバイトがあるからあんまり遅くなれないんだけど…」

「うん、でもそこに行くのは2月じゃなくっちゃダメな気がするの。3月になると何もかも消えてなくなっちゃいそうな気がするのよ」

「え?どうして?」

少女はそれには答えずに、2月最後のゼミに出席するため、食器を持って立ち上がりました。

夕方4時半、午後のゼミを終えてふたりは研究室をあとにしました。

3月初旬の入学試験の準備で、大学の授業はこの日で終わりでした。テレビの天気予報は、3月に入ると暖かい日が続くでしょう、と明るい声で伝えていましたが、2月最後の日が暮れると、雪の陰に姿を隠していた鋭利な冷気が突然現れて、何も覆われていないふたりの目や鼻を刺しはじめるかのようでした。

大学のある駅から電車に乗って郊外のターミナルに着いたのは17時を少し回った頃でした。少年は前日そこからゆっくりと2時間ほどかけて歩いて行ったのですが、今日は時間に余裕がありません。家庭教師のアルバイトをいつもより1時間遅れの20時からにしてもらっていたため、それより遅くなるわけにはいかなかったのです。

商店街はそこからバスで15分ほどでしたが、経路の違う何種類かの路線が走っていて、初めて乗るには少々複雑でした。そんなこともあり、ふたりは発作的に目の前に停まっていたバスに飛び乗ってしまったのです。

前日までの大雪で、道路わきには大量の雪が積み上げられていました。いつもは2台の車が行き交うには十分なはずの道も、今日はその半分の広さしかありません。バスは迂回ルートを使って目的地まで進む予定でしたが、唯一まともに通行できる道には仕事帰りの車が殺到し、ある地点からまったく動かなくなってしまいました。

「キツネの商店街に行けるかな?」

少女はときどき不安そうに外を眺めながら、ひとりごとのようにそうつぶやいていました。

「もし今日ダメだったとしても、また今度来ればいいさ」

少年がそう答えると、ううん、それじゃダメなの、と少女は言いました。

「キツネが手袋を買いに来るのは、子ぎつねのお手々がちんちんするような凍える夜だけなの。春になったらもう手袋はいらなくなっちゃうから」

少年は刻々と過ぎてゆく時計の針を眺めながら、このまま時間なんか気にせずに、バスに乗って少女とどこまでも行ければいいのにな、と思っていました。

最初の停留所に着くまでに50分かかりました。しばらくは進む見込みがないので、お急ぎの方は降りて歩いてください、とバスのドライバーがアナウンスを繰り返しました。

降りよう、と少女が言いました。歩いていったら遠いかな?

残念だけど、と少年が言いました。もう戻らなきゃ。

ふたりはバスを降りて、来た道を駅へと歩いて戻りはじめました。

また今度きっと来られるよ、と少年が声をかけましたが、少女はそれには答えず、黙って少年の手を握りました。

「こんなにちんちんに冷えてるのに、手袋をしてないなんて」

そういって彼女は自分の左の手袋を脱ぎ、少年の左手にはめました。裸になった少女の左手と、裸のままの少年の右手がお互いを温め合うようにそっと触れました。

「本当は、この毛糸の手袋を子きつねに売ってあげたかったの」

歩きながら少女がそんなことを言いました。

「たしか童話だと、子ぎつねは町の帽子屋さんで買うんじゃないのかな?」

「うん、でもあのあたりはもともとキツネの森だったのに、人間が勝手に線を引いて開拓しちゃったので、森からから出てくるのはとても勇気がいることだと思うの。だからどこか雪の影で隠れているキツネを見つけて、こっちから声をかけてあげようかなって」

空からはいつの間にかまたふわふわとした雪が舞い落ちてきました。

雪は人間の町に降り積もり、キツネの森にも降り積もっていることでしょう。確かにそこに境界なんてあるはずはないのです。

「いつの日か、またたくさん雪が降って、森で遊んでいた子ぎつねの手が霜焼けで赤くなってそうな夜があったら、あの商店街に行ってみたいな」

彼女はそういって、中空から舞い落ちる真綿のような雪と戯れるように、手袋をしている右手を伸ばしたり引っ込めたりしていました。

「でも、もしかするとふたりで行けないこともあるかもしれないので、そっちの手袋は預けておこうかな」

それを聞いた少年は、なぜかとても悲しい気持ちになって、手袋をしていない彼女の左手をぎゅっと握りました。

そしていつかまた、どっさり雪が降り積もった2月の夜に、こうしてふたり手をつなぎながら、キツネの商店街に行けたらいいな、と思いました。

<了>

手袋を買いに - 新美南吉 | 青空書院
雪深い森に住む狐の親子。寒さで冷え切った子供の狐の手を心配した母狐は、町へ手袋を買いにいくことを決意します。しかし、人間を恐れる母狐は、危険な町へ子供を一人で行かせることに。子供は母狐の教えを守って、手袋を手に入れることができるのでしょうか。

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