「横手のかまくら、一度見てみたいんですよ」
それはもう20年以上も前、僕が会社に入った年の2月の夕方、出先から会社に戻る山手線のこと。
車内吊りの観光広告を見ながら、何気なく僕が言った、そのひとことがきっかけでした。
「かまくら、懐かしいなあ。そうだ、これからかまくら見に行こうか」
僕のとなりで吊革につかまる彼女が、突然そう言い出しました。
彼女は僕の会社の先輩で、2年ほど入社年次が上でした。
僕が新入社員として配属されたチームでは彼女が僕に一番年が近く、そのために彼女は僕の指導社員役を任命されていて、僕は最初の1年間、彼女の見習い兼アシスタントのような形で、ほぼ毎日行動をともにしていたのでした。
「今日は金曜だから、このまま東京駅から新幹線に乗っちゃえばいいわよね」
彼女はそう言って東京駅で降りると、ホームの公衆電話から会社に電話して、お客さんとの飲み会を口実に直帰する旨を伝えていました。
どうやら僕の都合なんか全く関係なしに、ことは進みはじめているようでした。着替えとか、泊まり道具はどうするんだという疑問がないわけではありませんでしたが、まあそんな小さいことを言っても事態は変わらないだろう、という気がしました。
普段はわりと冷静沈着な彼女がこんなことを言いだすのは初めてだったからです。
当時はまだ秋田新幹線どころか、山形新幹線さえ開業前で、横手に行くには東北新幹線で福島まで行き、そこから在来線に乗り換えて長い時間特急列車に揺られるのが最も早い方法でした。
17時前の東北新幹線に飛び乗り、車内販売で買った駅弁とビールを開けると、彼女はこんなことを話し始めたのでした。
横手の子供たちにとって、かまくらは1年で1番楽しい行事だった。
もともとかまくらは水神様を祭る横手の小正月行事だったが、それは子供のためのお祭りのようなものだった。
かまくらの何日か前になると、おじさんたちが子供たちのためにかまくらを作り、おばさんたちは甘酒やもち、みかん・寒天・豆腐かすてら・漬物などをお盆や皿に用意してくれる。
子供たちはうれしくて、重い火鉢を運ぶのも、面倒な敷物の準備もはり切ってやった。
2月15日のかまくら当日、あたりが暗くなって子供たちが
「入ってたんせ(入ってください)!」
「あがってたんせ(あがってください)!」
「あまえこ(甘酒)飲んでたんせ!」
と呼びかけると、友達や近所の人達がお賽銭を上げ拝みに来てくれたり、見知らぬ観光客から賽銭やおみやげをもらったりした。
横手では正月のお年玉があまり多くもらえない代わりに、かまくらに上がったお賽銭を、次の日のぼんでんというお祭りを見に行く時の小遣いとして、みんなで分けるのだ。
この日ばかりは夜更かししても怒られなかったため、近所のかまくらへ行ったりして夜遅くまで遊び、それはもう楽しかった。
彼女の家の隣りに、二つ年上の男の子がいて、彼女はいつもその男の子と同じかまくらで過ごした。
もちろんその男の子とは普段から遊ぶことも多かったのだが、かまくらのときは彼女にとって格別な存在になった。
例えば、その男の子は、周りの子供たちと違って、まず一番に 『おしず(清水)の神さん拝んでたんせ!』 と、声をかけていた。
もともとかまくらは水神様を敬う伝統行事で、中に神棚があり、水神様が祭られているので、これが本当の呼びかけ方なのかもしれないが、なんだか彼が特別大人にみえた。
それから彼はお賽銭の分け方が平等だった。
子供たちの中には年齢によって分け前を変えたりする年長者もいる、という話もときどき聞いたが、彼は集まったお賽銭は100%平等に分け合った。
「そう、かまくらの時の彼は、誰よりもカッコよかったのよ」
窓際の席に座った彼女の向こう側を通り過ぎてゆく外の暗闇を眺めながら、ぼんやりと彼女の話を聞いていると、やがて新幹線の窓ガラスに、彼女のちょっと照れたような笑みが映りました。
福島で新幹線を降り、秋田行きの特急列車に乗り換えると、もうすっかり雪国の様子でした。
列車が進むにつれ、線路わきの積雪が深まっていくのが暗闇の中でもはっきりとわかり、山形との県境の峠を越える頃は、もう雪以外は何も見えない状態でした。
「中学生になると、彼はかまくらから卒業してしまって、私ともだんだん疎遠になってしまったの」
やがて彼女も父親の仕事の関係で、中学入学と同時に秋田市内へ引っ越してしまい、それ以来、かまくらを見ていないのだ、と言いました。
ひとりごとのようにいつまでも話し続ける彼女の向こう側、列車の外の雪景色の中には、いくつものかまくらが並んでいて、そのほのかな明かりの中では、小柄だけれど芯が強くて利発そうな男の子と、色白でスラリとしていて、ちょっと気の強そうな女の子が座っているような気がしました。
福島から3時間半、横手に着いた頃は、すでに夜の10時近くになっていました。
しばらく降り続いていた雪が少し前にやんだのでしょうか、道路には真白な綿のような新雪が積もっています。
かまくら期間中に行われているさまざまなイベントも夜9時で終わりとなり、駅前は遅い夕食のお店を探す観光客の姿がちらほらあるくらいで、町はもうすっかり静まっていました。
かまくらまで行ってみよう。
彼女はそう言って、時々僕の腕を支えにしながら、雪の中をおぼつかない足取りで進みはじめました。
私のかまくらは、羽黒町という昔の武家屋敷が並ぶ地区にあったのよ。
横手駅からどれくらい歩いたのでしょうか、距離的には大したことがなかったような気がしますが、ハイヒールとビジネスシューズという僕たちの装備ではさすがに厳しく、僕と彼女は手を取り合ったまま何度も雪の上に倒れこみました。
彼女をなるべく氷雪の上に打ち付けないようにするため、咄嗟に僕が彼女の下敷きになると、お尻や腰の痛みとともに顔に降りかかる雪の冷たさ、彼女の髪の甘い匂いが混ざって苦痛の中にも不思議な恍惚感がありました。
誰もいないかまくらの中に潜りこむと、火鉢の周りはまだ温かく、ローソクに火を灯すと、雪の壁に反射して室内は予想以上に明るくなりました。
「ねえ、『おしず(清水)の神さん拝んでたんせ』って言ってみてよ」
彼女はうれしそうに僕にそう言いました。
僕が照れながら言われたとおりにすると、彼女は、はいってたんせー、あまえこ(甘酒)飲んでたんせー、と続けました。
だんだん本物のかまくらをやっているかのように思えて、楽しくなってきました。
「ねえ、私のファーストキス、かまくらの中だったのよ」
彼が小学校6年生、彼女が4年生、結果的にふたりの最後のかまくらの夜、すべてを終えて電気を消したかまくらの中で、それは偶発的に行われたのだ、と彼女は言いました。
「暗くて、よくわからないままぶつかっちゃったの、彼と。そしたらなんとなくそんな雰囲気になっちゃって、アクシデントみたいな感じだったなあ・・・」
外はまた音もなく雪が降り始めたようです。
これから駅まで帰る道で、彼女と偶発的に倒れこんで重なり合うことがきっと何度かあるでしょう。
でも僕にはこれ以上、あの甘い痛みに耐えられるか、もうわかりませんでした。
<了>
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