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坂道【札幌/澄川駅】

札幌の郊外に澄川という小さな町があります。

‪地下鉄が札幌の中心市街地を抜けて地上に顔を出し、両側から山がだんだんと迫ってくるあたりに澄川の駅があり、‬‪僕は大学生の頃、この町で家庭教師のアルバイトをしていました。

家庭教師のバイト先は駅の東側に広がる丘の上の住宅街の中にあったため、その年の夏から秋にかけて、僕は毎週2回、駅からの坂道を登って、その古い2階建ての家に通っていたのでした。

僕の生徒は高校3年生の男の子でした。事前の面談で、彼の母親からは附属高校から大学への推薦入試をパスするために短期間で集中的に教えてほしい、という依頼を受けましたが、彼の能力は家庭教師を雇わなくても充分合格圏内であるように思えたので、なぜわざわざ彼に家庭教師を雇うのだろう、と不思議に思っていました。

毎回、2時間のレクチャーが終わると、彼の母親は当時ひとり暮らしだった僕に夕食を用意してくれました。2階で勉強を続けるという彼を残して、僕は1階のダイニングで彼の母親と向かい合わせに座りながら、いつも彼女に聞かれるがままに大学やサークルのことなど、他愛のない話をしていたのでした。

母親の実際の年齢は当時40前後だったでしょうが、実際の容姿はとても18歳の子供を持つようには見えませんでした。おまけにその家の中で父親に会ったことは一度もありませんでした。食事の会話が長引き夜遅くなっても、週末の午後のレクチャーても、その家に父親の気配を感じることはありませんでした。

あるとき、レクチャーあとの食事中に彼女が妙なことを言いました。

彼女の友達に、若い大学生と遊んでみたい、という人がいると言うのです。

僕たちは広いリビングに置かれた、ダイニングテーブルに向かい合って座っていて、彼女はずっと俯いて紅茶の中のレモンをスプーンでもてあそんでいました。

「ごめんなさいね。あなたにこんなこというの、とっても恥ずかしいんだけど、私、大学生なんてあなたのことしか知らないから・・・」

彼女がまとう、夏の薄手のコットンシャツが扇風機の微風にときどき揺れていました。

「いいですよ」

ちょうどその前年、付き合っていた彼女とあまり幸せではない別れ方をしたままふらふらとしていた僕は、なんでもいいや、と思っていたのです。

彼女は狼狽して、手にしていたコーヒースプーンをテーブルの下に落としました。 銀色の小さなスプーンを拾うために、テーブルの下にしゃがみ込んだ彼女のスカートの中から、ストッキングをまとっていない、白くて長い足が現れました。

3日後の8月の暑い午後、待ち合わせの喫茶店に入った僕の顔を見つけると、彼女は顔を真っ赤にしてテーブルの上に突っ伏してしまいました。

僕が目の前の席に座っても顔を上げられないまま彼女は言いました。

「ごめんなさい。だましてたわけじゃないの。私の友達が急にキャンセルするなんて言いだしたから、ホントはあなたにお断りしようと思ったんだけど・・・ごめんね。私が来ちゃった・・・・・」

僕は、なんとなくわかっていました。 きっとこうなるんじゃないか、ということを。

それから数ヶ月の間、僕はときどき彼女に誘われ、火曜日の大通公園のカフェや水曜日の午前10時の美術館、金曜日の夜のススキノに出かけ、週2回の家庭教師の日は彼女の作った夕食をともにしていました。

僕たちは(少なくとも僕は)空気のように自然に一緒にいることができました。小柄で細身の彼女の見た目が若かったからかもしれませんが、不思議なことに年齢差もほとんど気になることはありませんでした。

けれどもそんな不思議な関係は長くは続きませんでした。秋の終わりにあった大学の推薦入試に彼が合格し、家庭教師としての僕の役割は終わったのでした。

彼の合格を祝うささやかな食事会のために最後に澄川を訪問した夜、駅へと向かう坂道を下っていると丘の上の家から彼女が出てくるのがわかりました。

それを見た僕の足はとっさに脇道の路地へと曲がり、のっぺりとした住宅が並ぶ道を通り抜けるとちょうどやってきた市営バスへ乗り込んだのでした。バスの扉が閉まると彼女が澄川駅の改札口方面へと入っていくのが見えました。

その時、なぜ僕の足が突然そんな動きをしたのかは今でも正確なところはわかりません。いつかどこかで終わりが来るとは思いつつも、当時の僕にはその関係が心地よく、特別に負担になっていたこともなかったのです。

彼女からの連絡はそれを機に途絶えました。明日あたりまた電話がくるのではないか、と毎日思っているうちにやがて長い冬がやってきました。

僕はまた新しい家庭教師のバイトをはじめましたが、新しい場所の新しい家の前には坂道なんかなく、もう以前のように坂の上の家へと向かう足が自然と急いてしまうようなこともありませんでした。

あれから何年が過ぎたのでしょうか、久しぶりに澄川駅に降り立っても、街は以前と変わらないのか、それともずいぶん変わってしまったのかさえ思い出せないくらい年月が経ってしまいました。

駅から丘の上の住宅街に向かう坂道は変わらずにそこにありました。けれどもかつては戸建住宅が並んでいたあたりにはマンションやアパートが建てられていて、僕の知っている彼女の家はもうどこにあるのかわかりませんでした。

もちろん彼女の家があったとしても、もうどうすることもできないのはわかっていましたが、もう一度だけ、彼女の家へ向かいながらこの坂道を登ってみたかったな、と思いました。

〈了〉

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