桜が待ち遠しかった。
もう1年以上、僕たちの旅は制限され続けていた。
去年の桜は、家の近くの公園で見た。そこは都内では桜の園として有名な場所だったが、桜が開花すると不要不急の外出が制限されはじめた。いつもなら、広い芝生の上にたくさんのビニールシートが敷かれ、家族連れやカップル、会社や学校の仲間たちが春のもわんとしたおひさまの下で、冬のあいだに縮こまっていた全身を思いきり伸ばして、思い思いに過ごしている場所のはずだった。
けれども去年僕が見た桜は、季節外れの雪の重さに必死に耐える桜だった。人々はお互いの接触を恐れて家に籠っていた。花見日和であればあるほど、人々が密集するような場所には行き難かった。なのでこんな大雪の日ならきっと誰もいないはずだ、と思って初めて桜を見に行ったのだ。
桜が散っても僕たちの旅は制限され続けた。
夏前や秋に少しだけ落ち着いたように装ったウイルスは、僕たちがかすかな希望を抱くとすぐにそれをあざ笑うかのように襲いかかってきた。
長い冬だった。僕たちが過ごしてきたのはずっと冬で、これから先もずっと冬みたいな気がした。
早く桜が見たかった。圧倒的な、比倫を絶するような桜が見たいと思っていた。
近鉄阿倍野橋から吉野行きの特急に乗っても乗客はほとんどいなかった。
4月最初の日曜日、例年の満開時期より少し早いものの、記録的な早さで桜前線が日本中を駆け巡っている今年に関していえば、ベストなコンディションの週末のはずだったが、またウイルスの状況は悪くなりつつあった。おまけに天気予報が伝えていた通り、空はすでに重くこの先しばらくは好転しそうになかった。
20年前の桜も雨だった。それでもあの頃はまだ若く、僕の隣を歩いていたあたたかくて柔らかな存在が、僕の肩に降りかかる冷たい雨をすぐに乾かし、雨にけぶる桜山を明るく照らしていた。
吉野に行こう、と思ったのはその圧倒的な存在を思い出したからだ。桜も、桜とともに記憶に残る誰かも。
近鉄吉野駅から吉野山頂行きのロープウェイに乗り換えても誰も乗客はいなかった。15人か20人も載せてしまうといっぱいになってしまいそうな小さなゴンドラが、僕ひとりを乗せて発車しようかというその時、一人の乗客が階段を小走りに登って来て、さくら色の車体を揺らせた。
バランスがあるんでね、向かい合って真ん中に座ってください。
駅の係員がそういってドアを閉めると、僕たちはたった二人でゆっくりと中空へ旅立った。
さくら色のマスクをしている、と思った。
彼女はしっかりと両膝を閉じ、うつむき加減で僕の目の前に座っていた。僕は窓の外の桜を見るふりをしながら、ゴンドラの中を漂う彼女の視線を追っていた。目尻が少し下がってやさしく見えるからだろうか、彼女の視線はどこかふわふわしていて不安定だった。もっと桜を見ればいいのに、と思った。
気づまりな、しかし不思議な感覚の3分間が終わって外に出ると山の上は雨だった。ホームで鞄の中から携帯用の小さな傘を取り出すと、その先に駅舎の外に出るのを躊躇っている彼女の背中が見えた。
自分でも驚くくらい自然に彼女に傘をさしかけられたのは、あの時も雨が降っていたからなのかもしれない。
彼女はゆっくりとその傘を見上げ、そしてさくら色のマスクをこちらに向けた。なぜ?というように瞳が動いた。さっきはあんなに不安定に見えたのに、近くで見ると黒くて大きな瞳だった。でも困惑しているように見えないのは、きっと彼女のやさしい目尻のせいだ。
傘が買えそうなお店まで、と僕が言うと、彼女はありがとうございます、と言って僕の右隣を歩き始め、左手に持っていたバックをそっと右側に持ち替えた。小さな携帯用の傘に二人が収まるには相当身を寄せなくてはならなかったが、僕は彼女のあたたかそうな肩に触れるのを恐れた。いつの間にか本降りとなった冷たい雨が、僕の左肩を濡らした。ゆるやかな上りの参道脇には食堂や土産物屋が並んでいた。目についたお店に入って傘がないかと聞けば、もしかすると店の奥から出てきたかもしれなかった。それでも僕と彼女はしばらくそんなふうにして黙って桜雨の中を歩いた。
店頭に「傘 500円」という表示が見えて、僕と彼女はどちらからともなく立ち止まった。僕はああ、見つけてしまった、と思いながらそっと離れていく彼女のうしろ姿を見ていた。
彼女は自分で買った透明なビニール傘をさして僕の隣に戻ってきた。黒くて大きな瞳はまたふわふわと中空を漂っているように見えたが、遠くに行ってしまう様子はなかった。そして僕たちは再び参道を歩き始めた。僕の左肩に落ちていた冷たい雨は傘の上で音を立てた。
参道を進むと修験道の根本道場として知られる金峯山寺があったが、僕たちはそのまま横を通り過ぎて先に向かった。もっと桜が見たかった。山全体を埋め尽くすような吉野の桜が見たかった。
金峯山寺を過ぎてしばらくすると吉水神社への下り坂があった。この先に一目千本と呼ばれる桜の名勝があるはずだった。
彼女は、わぁ、と小さな声を上げた。そしていつまでも中千本と上千本と呼ばれる桜千本を眺めていた。そのうしろ姿は、かつて僕がここで見た誰かに少し似ていた。
前に来た時も雨だったんだ。
彼女に並んで桜を見ていると、自然にそんな言葉が出た。
ーわたしもです。
急に鼓動が早くなった。彼女はここに来るのは初めてで、こうして誰かと桜雨の中を歩くのも初めてだと勝手に想像していた。
本当はこの先に花矢倉っていう展望台があって、そこからが一番きれいに見えるはずなんだけど、行けなかったんだ。
ーわたしもです。
行ってみますか?
ーうん、行ってみたいです。
雨、たくさん降ってるよ?
ーでもせっかく傘、買ったから。
中千本のバス停を過ぎると上り坂になった。狭い参道を雨が川のように流れ始めた。竹林亭群芳園の前を通り、奧千本行きのバス停にたどり着くと、山を覆っていた白い霧は桜だけでなく僕たちふたりをも包んだ。ここから上に行っても、もう展望は開けないかもしれない。それならばもっと濃く包んでくれてもいいのに、と思った。
これも前に来た時と同じ?
ー同じです。
花矢倉という名前の由来は、かつて頼朝と不和となり、都落ちして吉野に忍んでいた源義経をこの山の僧兵から守るため、家来であった佐藤忠信が追っ手に雨のように矢を射かけたからだと言われている。だからいつも矢のように雨が降っているのだろうか。僕が2回で彼女も2回、もう4回も雨が続いていることになる。
一段と激しくなってきた雨を避けるように僕たちは参道沿いの茶店に入った。桜の季節なのにそこは閑散としていて、案内されたのは窓際の特等席だった。
雨で体は冷え始めていた。ふたりであたたかいお茶を飲み、葛餅を分け合った。
もう聞かなくても答えはなんとなく想像できた。きっと彼女がかつてここでお茶を飲み、葛餅を食べたのも、比倫を絶するような存在の誰かと一緒だったのだろう。彼女はその後、新しい恋をしたのだろうか、それとも僕のように、それが最後の恋だったのだろうか。答えはわからなかったが、それは聞けなかった。
彼女がさくら色のマスクを取ると、その下からもっとふんわりとして柔らかそうな桜唇が現れた。ソメイヨシノが散って、八重桜が咲いたのかと思った。僕が白い霧色のマスクを外したら、少しは晴れたように見えてくれればいいな、と思った。
店を出ると彼女があっ、と小さな声を上げた。店先に置いておいた彼女のビニール傘がなくなっていた。
そして僕たちはまたふたりで携帯用の小さな傘に入った。わたしの不注意でごめんなさい、と彼女は言った。雨はますます強くなっていた。謝ることはないよ、と僕は言った。
通り過ぎる店先に傘が並んでいても、僕たちはもう立ち止まることはなかった。
肩が濡れちゃう、と言って彼女が僕の左肩に手をかけ、傘の中に少しだけ引き寄せた。ふたりを包む霧が少し深くなったような気がした。やわらかくてあたたかいものが戻ってきた、と思った。
吉野駅から大阪阿部野橋に戻る特急は貸切だった。二人で一番後ろの席に座った。誰もいない車両の一番後ろに座ると、そこは誰にも見つからない秘密基地のようだった。
あの時も一番後ろの席に座っていた。2両編成のこじんまりとした特急には数えるほどの乗客しかいなかったのに、彼女は春物のコートを覆ってその下で僕の手を握っていた。大阪に着いてしまうと別れなければならないのがせつなくて、隙を見て何度もキスをした。
さくら色のマスクをした彼女が、今、僕の左隣に座っている。僕は濡れた左肩が触れてしまわないように、あたたかくてやわらかいものから身を離しているが、彼女はときどき僕の肩の湿り具合を調べるようにそっとそこに手を触れる。
さくら色のマスクを白い霧色のマスクで覆えばきっと桜雨が降るだろう。でもそれだけでは終わらないような気がする。
さっきの茶屋で一瞬見た、マスクの下の八重桜が見たくて、僕はソメイヨシノを散らせてしまうかもしれない。そしてそれを明るく晴れた空の下で見たくて、僕も白い霧を追いやるだろう。そうしたらあの時と同じように何度も何度もキスを続けてしまうのだろうか。
桜雨はまだ降り続いている。僕と彼女を合わせて4回目、これも運命なのかもしれない。雨があるから、そのあとの晴れも格別美しく見えるのだ。
さくら色のマスクをした彼女が、今、僕の左隣に座っている。僕はそのマスクの上にそっと白い霧のマスクを寄せる。
このあとすぐに晴れて八重桜が咲くかどうかはわからない。でももう一度彼女と一緒に、今度は桜雨じゃない吉野に来てみたいと思う。
<了>
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