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夏の終わりのなごり雪【大分県】

謎の美女、というイメージのわりには、彼女は薄く壊れやすいガラスの幕のような、透明なベールをまとっているように見えました。
いや、そもそも謎の美女というのは僕が勝手に思い込んでいただけで、別に彼女が自分で謎の女だと言ったわけではありませんでした。
ただそれまでの彼女の言動や、少しだけうかがい知れていた風貌から、僕は彼女のことを美しいけれど、クールでちょっと影のある、謎めいた大人の女性だと思っていたのでした。

実際に目の前にしてみると、彼女はほのかに甘い香りの漂う、色の白い女性でした。
それなりにいろいろな経験を重ねた年齢であることはあらかじめ知っていましたし、実際にそうではあるのでしょうが、彼女にはどこか無垢な初々しさがあったのでした。
そう、それは高校時代に、当時の彼女が初めて口紅を塗ってデートに現れた時のことを僕に思いださせてくれました。

「あいにくの雨になっちゃってごめんなさい」
大分駅前で、僕が助手席に乗り込むと彼女は言いました。
「私、雨女なのよ」
そう言って彼女はかすかに指先を震わせて、カーナビを操作し始めました。

大分県にある、トトロのバス停と宇佐のマチュピチュ。
僕が今回の九州の旅で行こうと思っていたところをWebの旅行サイトで書きこむと、突然、謎の女性からメッセージが届いたのでした。

「車がなければ1日でその2つを回るのは相当大変だと思います。そもそもどちらも公共交通機関でそうそう簡単に行けるところではありません」

メッセージの主は、大分に住む女性のようでした。
彼女は時々、僕が書く旅の日記を見ていたのだそうです。
そして何度目かのやり取りのあと、彼女は僕にこう言ったのです。

「もしよろしければ私が車でご案内しましょう。ちょうどその日は夏季休暇を取っています」

正直なところ、まともな旅行者ならあまり行かないようなB級スポットに付き合ってもらうのは申し訳ないし、また、多少は苦労してでもそうした辺鄙な場所に自分の足で行くのが旅の醍醐味だと思っていることもあり、僕はその好意を受けるかどうか、最初は悩んだのでした。
それでも僕が最終的にその提案を受け入れたのは、その謎めいた女性に興味が湧いたからでした。

「トトロもマチュピチュも、私の思い出の場所だったのよ」
彼女はせわしなく動くワイパーの向こう側をまっすぐに見つめながらそう言いました。
「小学校の教員になって初めての赴任地が宇目町(今は佐伯市)という場所。近くに轟(ととろ)という集落があってそこがトトロのバス停のあるところ。その次の赴任地が院内町(今は宇佐市)の西椎屋。あのマチュピチュみたいな山の下にある小学校」
あなたが行きたいと言っていたトトロもマチュピチュも、全部私の仕事場だったのよ、と。

彼女は東京の音大を出たあと、生まれ故郷である大分に戻って教員になったのでした。

「本当は東京でピアノを続けたかったんだけど、いろいろあって結局は大分に帰って来ちゃったのよ」
彼女はそう言って遠くを見つめたまま、少しだけ口角を上げました。それは彼女がちょっと困ったときに見せる照れ隠しの笑顔なのかもしれません。

「最初は赴任地の名前を聞いてもどこだか全く分からなくって、調べてみたら児童が30人しかいない山の中の学校だったの。当時はジブリのアニメもまだそんなに有名じゃなかったので、轟(ととろ)なんて変な名前だし、目の前が真っ暗。でもね、行ってみたらすごく楽しかった。その次の宇佐のマチュピチュの小学校も同じ。それぞれ3年づついたんだけど、どっちも離れるのが辛かったくらい」

「それで僕を案内してくれることに?」

「そう、どっちもずいぶん長い間行っていなかったので、急に懐かしくなっちゃったの。
それに、こんな場所に両方行きたいだなんて言ってる人、どんな人だろうって」

トトロのバス停は、もともとあった場所から移されてしまったようで、彼女はしばらく迷っていました。どうやらトトロを通る大分バスの路線が廃止され、地域のコミュニティバスが走ることになったのをきっかけにバス停の場所も移設したようでした。
大分バス時代のバス停表札や木造の待合所はそのまま残され、(おそらくどこかのファンが描いた)ジブリのアニメを模した看板が飾られているので、トトロのバス停は静かな集落の中では少し華やいでいるように見えましたが、厚い雨雲の下、人影はどこにも見当たりませんでした。

彼女の最初の赴任地だった小学校は、今はもう廃校になっているようでした。
彼女は朽ちかけた校舎の周りを遠巻きに歩きながら、しばらくの間何かを探しているようでした。
「この学校はね、卒業式のあと、子どもたちが毎年『なごり雪』を唄うのよ」

「なごり雪」は、イルカのヒット曲として知られていますが、彼女によるとこの歌は、ここからほど近い、大分の津久見出身の伊勢正三が作った歌なのだそうです。

彼女は毎年、卒業式の日にピアノでその伴奏をしていたのですが、彼女自身の卒業式の日-それは彼女が学校に赴任してから3年後、彼女の異動が決まり、宇目の町を去っていくとき-重岡駅という1日に6本しか列車の来ないこの町の小さな駅で、在校生だけでなく、今までの卒業生たちがみんなでなごり雪を唄って見送ってくれたのだそうです。

「嘘みたいな話だけど、その時、本当に季節外れの雪が降ってきたのよ」

古い列車がギシギシと車輪の音を立てて動き始めても、子どもたちの透き通るような歌声はずっとずっと、そう、それは今でも耳に残っているのだ、と彼女は言いました。

トトロのバス停から宇佐のマチュピチュまでは、縦に長い大分の南端から北端への移動となります。
いつの間にか雨は上がり、阿蘇や九重の山々の空も、やや明るくなりつつありました。

「晴れ男と一緒でよかったわ」
遠くを見つめたままの姿は変わりませんでしたが、今度はさっきよりちょっと口角を上げて彼女が言いました。
「次に行く小学校は、雨だと大変なのよ。特にこんな格好だと」

アクセルとブレーキに軽く添えた彼女のハイヒールからは、白くて瑞々しい足がまっすぐに伸び、膝上10cmのあたりから薄い涼しげな白のスカートの中に吸い込まれていました。
彼女がまっすぐ前を見続けていることを理由に、ずっとその夏の白色を見ていたかったのですが、なんだかそれはよくないことのような気がして、僕はまた高校生のようにドキドキしていたのでした。

宇佐のマチュピチュに着く頃には、時折青空が眺められるほどに天気が回復していました。
彼女の2つ目の小学校に行くには、展望所の駐車場に車を止めて、村の集落に続く長い下り坂を歩かなければなりませんでした。
時々彼女は僕の肘につかまりながらも、その急な坂を夏の白い装いで下り終えると、さっきと同じように廃校になった校舎の周りを歩きながら何かを探しているようでした。

ピアノが残っていれば、と彼女は言いました。
なごり雪をもう一回弾いてみたかったんだけど。

朽ちかけた校舎はかろうじて残っているものの、周りには背の高い雑草が生え、中を覗くのさえ大変なだけでなく、教室の中に何か彼女の記憶とつながっているものがあるようには思えませんでした。

なごり雪を唄っちゃだめ、ってことなのかな。
口角をさらに上げ、そして今度はまっすぐ僕のほうを見て、彼女はちょっとはしゃいだようにそう言いました。

予定よりずいぶん早く2つの場所をまわり終えてしまった僕たちは、大分駅へと向かっていました。
どうやら、僕たちのなごり雪の時間も近づいてきているようでした。

「まだ時間も早いので、もうひとつ案内したいんだけど、いい?」
沈黙を破るように彼女はそう言って、目の前に由布岳を望むICで高速道を降りました。

彼女が連れて行ってくれたのは、高原のリゾートにある三角屋根の美しい小学校でした。
駐車場に車を停めると、彼女はまっすぐ別棟の校舎に向かい、小さな音楽室へと僕を招き入れました。

ホントは関係者以外誰も入れちゃいけないんだけど、今日は誰も来ないと思うから、と言って彼女はピアノの前に座りました。

なごり雪、どっちが唄おうか?
鍵盤にその白い指をかけたところで、彼女が突然そう言いました。

なごり雪を唄うのは、まだちょっと早いんじゃないかな。
僕が思わずそう口にすると、私もそう思ってたの、と言って彼女は静かに微笑みました。

彼女の弾く、歌のない『なごり雪』が響き渡る小さな音楽室の窓からは、雨上りの透明な午後3時の光を受けて、由布岳がこれ以上ないくらい緑に輝いているのが見えました。
彼女の白いスカートがひらひらと舞うと、どこからか夏の終わりの香りがしました。

僕はその音や光や匂いの詰まった柔らかなクッションの上に横たわって、この時間と空間がずっと続くといいな、と思っていました。

<了>

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