やっぱり咲いてなかったね。
桜前坂を登り切って、二十間道路と呼ばれる桜並木が目の前に現れると彼女はポツリとそう言いました。
ずっと先のほうに見える日高山脈に向かって、まっすぐに伸びる道路脇に植えられた三千本の桜の樹々には、何千万、何億というつぼみがあるはずでしたが、その中のたった一輪でさえ、まだ咲いていないように思えました。
彼女と出会ったのはまだほんの2時間前、静内駅前のレンタサイクル店でのことでした。
二十間道路まで静内駅から片道15キロ。簡単に歩いて往復できる距離ではありませんが、朝7時半という早い時間のためレンタカーも借りられず、1日数本の路線バスが出る時間もずっと先のことでした。
駅前の旅館で自転車を貸している、という話を聞き、あわてて行ってみると最後の1台が今、まさに借りられてしまったところでした。
今日は宿泊のお客さんの予約が入っててね。もともと出せる台数が少なかったんだよ。
気の弱そうなフロントのおじさんは、がっかりした僕の表情を見て、とても恐縮しているようでした。
「よかったら、一緒に乗りますか?」
横のカウンターで申込書に何かを記入していた女性が、突然僕に向かってそう言いました。
「ただし、私を後ろに乗せて桜並木まで連れて行ってくれれば、の話ですけど」
こうして僕は、やや古ぼけてあまり気の利かなそうなママチャリの後ろに彼女を乗せて、曇天の日高のまっすぐな道を走り始めました。
彼女は途中、サラブレッドの親子を見つけると自転車を飛び下りて駆け寄り、雪解け水をたっぷりと運ぶ小川を見つけては冷たい水に嬌声を挙げ、広大な草原に立つサイロに感動しては写真に収めたりしていました。
「はい、ゴールまであと10キロ。頑張って。ペシペシッ」
彼女はときどきふざけて競走馬のように僕の背中やお尻を叩き、はしゃいでいます。
精神年齢は相当若い、ということは十分にわかりましたが、実際の年齢は全く見当がつきません。20代後半でも、40代前半でも不思議ではない気がします。
国道を曲がると、桜並木の手前に桜前坂、という緩やかな登りが現れました。
車や歩きであれば大した坂ではありませんが、自転車、とくに二人乗りだと厳しい坂です。
桜前坂に差し掛かると、立ち上がって勢いよくペダルを漕いでもほとんど前に進みません。
「やっぱり私、ここで降りようかな…」
彼女が突然、そんなことを言いました。
「そうだね、坂の部分だけ自転車を降りて歩いてくれると助かるな」
「ううん、違うの。桜並木に行かずに、ここで帰ろうかなって」
びっくりして理由を聞く僕に、だって桜、きっと咲いてないでしょう、と彼女は少し拗ねたような表情で言いました。
せっかく東京からこんなに遠くまで来て、あなたにも一生懸命自転車漕いでもらって、でも肝心の桜が全然咲いてないなんて、なんだかバカみたいじゃない。
私っていつもそう。すごくタイミングが悪いし、いろいろなことがなかなか思うようにいかないの。
彼女の言う通り、桜はきっとまだ咲いていないはずでした。
例年ならGWの後半には開花することが多い静内の桜も、今年は5月になっても気温があがらず、開花予想もずいぶん後ろにずれ込んでいました。
それでも僕は、自転車を漕ぐことをやめませんでした。フラフラになりながらも10センチ、20センチと進み続けていると、やがて彼女は何も言わずに僕の背中にピタリと身を寄せました。
「やっぱり咲いてなかったね」
桜前坂を登り切って、二十間道路と呼ばれる桜並木が目の前に現れると彼女はポツリとそう言いました。
「でもさ、ここに満開の桜が咲いてる、と思って歩けばいいんだよ」
僕がそういうと、彼女は吹っ切れたようにわざと大げさに驚いて、あなたのその楽観的な妄想、とてもいいわ、と言いました。
そうね。素晴らしい桜並木。
5月の真っ青な空、日高山脈の真っ白な残雪、ずっとずっと遠くまで真っ直ぐな道。
牧草の萌えるような緑、若いサラブレッドたちの艶のある茶、何十種類、何百種類にも見える桜のピンク。
最高の瞬間が目の前に広がってる。
これがひとつ目の妄想ね。
さあ、歩きましょう。
そう言って彼女は自転車を降り、僕の手をとってずんずん奥に進みます。
そうだ、もうひとつのほうの妄想を教えてあげる。
今、私の隣にいるあなたが、私の最高のスタリオンだって思うことにしたの。
だから今日はずっとずっと付き合ってもらうからね。
スタリオンは優秀な種馬っていう意味だから、夜も休めないわよ。
覚悟してね。
<了>
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