「私、たまらん坂に住んでるの」
彼女がそういうと、まるで誰かがかわいい童謡の一節を歌っているかのように聞こえました。
たまらん坂?
僕がそう聞き返すと、彼女はそれが国立と国分寺のちょうど市境にある坂であること、RCサクセションの忌野清志郎がかつてその坂の途中に住んでいて「多摩蘭坂(たまらんざか)」というバラードのモデルになっていることを教えてくれました。
「だから都内から通って来るのは遠いけど、ホントにいいの?」
彼女は国立にある音楽大学の四年生で、僕は東京に来てまだ日も浅い、社会人の一年生でした。
共通の知人を通じて行われたちょっとした合コンをきっかけに、僕が彼女にピアノを教えてもらうことになったのでした。
それから月に一度か二度、国立の駅前で買ったケーキを持って(これが毎回のささやかなレッスン料でした)僕は都内の家から一時間かけて電車とバスを乗り継ぎ、「多摩蘭坂」のバス停で降り、「たまらん坂」の途中にある彼女のマンションへと通ったのでした。
彼女は小さい頃からクラシックピアノを学び、音大のピアノ科在籍という経歴を持つ一方で、なぜかRCサクセションが大好きでした。
当時のRCはまだまだ清志郎が若くて尖っていた時代だったので、そのギャップはどうにも不思議な感じでしたが、レッスンが終わり、買ってきたケーキを食べながら、毎回ふたりでRCサクセションのアルバムを聞いているうちに、いつの間にか僕もすっかり彼らが気に入ってしまいました。
なかでもやはり「多摩蘭坂」は名曲でした。透明で、ファンタジックで、どことなく物哀しいけれど、ずっと向こうに希望もうっすらと見える、そんな感じの歌でした。
彼女がこの歌を聞いて、ここに住みたい、と思ったのもよくわかりました。
日曜の午後、ふたりで彼女の部屋の壁にもたれて、この曲を何度もリピートしながら聞いていると、ずっとこんな平和な時間が続けばいいのに、と思えてくるのでした。
でもそんな時間はずっと続くことはありませんでした。
卒業後は東京でピアノの講師をする予定だった彼女が、家庭の事情で急遽、実家のある金沢へと帰ることになったのです。
最後のレッスンの日は、せっかちな春が間違って一ヶ月以上早く入学式に来てしまったんじゃないか、と思えるくらいおだやかな3月最初の日曜日でした。
レッスンを終えると、いつものように紅茶とケーキが用意されました。ベランダの向こう側には、ゆるやかに下るたまらん坂と、一橋大学の古い建物が見えました。
「ようやく少しはまともに弾けるようになってきたのに、これからどうしたらいいんだろう?」
まるで独り言のように、僕はそんなことを口にしていました。
彼女は窓の外を眺め、長い間考えてから、こんなことを言いました。
「多摩蘭坂の歌詞にあるように、ここから見る月、ホントにキレイなの。よかったら今夜、見ていきませんか?」
昼間はあんなに暖かかったのに、夜になると急激に寒波が舞い戻ってきたようでした。ベランダに出ると彼女はとても寒がって、時々僕の左腕にそっと身を寄せました。
多摩蘭坂を登りきる手前の 坂の途中の家を借りて住んでる
だけどどうも苦手さ こんな夜は
お月様のぞいてる 君の口に似てる
キスしておくれよ窓から
©RCサクセション 多摩蘭坂
真夜中は燃えるように真っ赤だったお月さまは、明け方になるとだんだん透明になって、やがてたまらん坂の向こう側にゆっくりと、名残惜しそうに沈んでいったのでした。
中央線の上り電車は、すでに通勤ラッシュがはじまりかけていました。
月曜の朝特有の灰色の吐息をまき散らしながら吊り革につかまっている人たちを見ながら、僕は何か大事なことを言い忘れてきてしまった、と思いました。
すぐに電車を飛び降りて、国立駅から一橋大学を抜けて、たまらん坂を駆け上がれば、彼女がまだベランダに出て僕を待っているような気がしました。
すでに乗客で満員となった車内の人波をかき分けて、次の駅に到着するのをドアの前で今か今かと待っている僕の意識とうらはらに、僕のカラダはまるで何か目に見えない枷が手足を押さえ込んでいるかのように、ピクリとも動きませんでした。
降ります、降ります、という僕の心の叫び声はきっと届かなかったのでしょう。
プラットホームから怒濤のように押し寄せてくる人々を詰め込めるだけ詰め込んで、電車は灰色のビル群の方角に向かってまた容赦なく動き出したのでした。
忌野清志郎さんの死後、その聖地として多くのファンが訪れるたまらん坂。
ここに来ると、今でも彼女に会えるような気がしてなりません。
<了>
たまらん坂の基本情報
たまらん坂への旅
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