written by Tetsuya Kazamatsuri
旭岳ふもとの街の雨上がり ケーキを二つ選んで帰る
歩いていると、彼女が突然そんなことをつぶやいた。いや(最初は気づかなかったけど)おそらくそれは「詠んだ」と言ってあげるべきことだったのだろう。
「え?いきなりどうしたの?」
「あれ、前にお話したことありませんでしたっけ?私、昔、うたを作ってたことがあるんです」
「うた?うたってあの、五・七・五・七・七のやつ?」
僕と彼女は北海道にある東川という町にいた。
激しい夕立が上がって、北海道とは思えぬほどむっとしていた空気が、ようやくこの地の8月の午後6時らしい涼風へと変わっていた。町から歩いて15分、「暮らし体験館」と呼ばれるこの日の宿に戻りながら、そういえばずっと前に彼女からそんなことを聞いたことがあるな、と思った。
そう、彼女の歌のとおり、僕たちはこの日の夕食の買い出しにでかけて、そのまま東川の町を散歩して、道すがら見かけた小さな洋菓子店でそれぞれのケーキを買って帰るところだった。
彼女は札幌に住む、大学時代の文学部の後輩だった。卒業してから20年以上、僕が北海道にやってくるとときどき声をかけ、一緒に食事に行ったりする関係ではあったが、ふたりで旅行するのはもちろん初めてだった。
「暮らし体験館」はその名の通り、もともとは東川への移住を検討する人が滞在し、町での暮らしを体験するための集合住宅の1室だった。LDKのほかに3つの寝室があったが、僕と彼女は今夜、ふたりきりでここで過ごすことになっていた。
東川町は北海道の中央部にある人口8000人程度の小さな町だったが、大雪山麓の豊かな自然の中での暮らしと北海道第2の都市、旭川からほど近い利便性を両立することができるため、都会からの移住者で人口が増えている注目の町だった。町なかには移住者がはじめたおしゃれなカフェやショップが並び、そこは海外のリゾートタウンのようにも見えなくはなかった。
移住を考えているほどではないが、いつの間にか東川町のファンになっていた僕も何度かこの町を訪れたが、町内には一人で泊れるようなホテルがなくいつも日帰りだった。ふるさと納税の制度を使ってこの町の株主となると、町が用意している移住希望者向けの宿泊体験施設に泊まれるようだったが、広い住居に一人で泊まるのもあまり気乗りがしなかった。
「東川、私も前から行ってみたかったんです。一緒に行っちゃダメですか?」
今年の北海道行きが決まったあと、東川のことを話していたら、突然彼女がそう言った。
「え、部屋はいくつかあるけど、一つ屋根の下だよ?」
「寝室は3つあるんですよね、だったら私のほかにも誰か誘って3人で行けば大丈夫じゃないですか?」
結局、彼女の提案通り、同じく文学部の後輩(彼女の同級生の女子)をもうひとり加えた3人で、僕たちは東川に行って暮らし体験館に泊まる予定だった。その日の朝までは。
一緒に行くはずだった女の子から届いた急遽行けなくなったというコメントを見て、さあどうしようか、と迷っていたところに彼女からのメッセージが届いた。
「私はもう全力で行く気マンマンだったんですけど、ふたりきりじゃいやですか?せっかくいろいろ調整して時間作ったので、できれば予定通り行きたいと思ってます…」
ひろびろと3LDK暮らすような 旅なり東川の夕暮れ
暮らし体験館に戻ると、彼女がまた歌を詠んだ。
町なかの小さなピザハウスからテイクアウトした「パンチェッタとレモン」、余市のスパークリングワインとサッポロ黒ラベル、そしてなぜか「あげいも」を買って、旭川家具で揃えられたダイニングルームで乾杯したあとだった。
彼女は僕と同じ文学部の国文学科で源氏物語を専攻していた。彼女が歌を詠むのは、研究の中で和歌を扱うことが多かったからなのか、と思ったが、それはあまり関係ないようだった。
「大学1年生のとき、偶然著名な歌の先生と知り合って教室に通ってたことがあるんです」
「え、それじゃ僕がまだ研究室にいた頃じゃないか、当時はそんなこと知らなかったよ」
「だってあのころ詠んでいた歌なんて自分の身の回りの些細なことや、実りもしない恋の歌ばっかりで、恥ずかしくて人に見せられるものじゃなかったもん」
彼女がそのころ恋の歌を詠んでいたなんてぜんぜん想像もしてなかった。きっと当時はまだ彼女をひとりの女性として意識してなかったのだろう。
君と彼女は今から20年以上もあと、東川町の町営住宅で、ふたりきりで一つの屋根の下、一夜を過ごすことになるよ、と当時の僕に伝えたらきっとびっくりするだろうな、と思った。
「じゃあ当時ひとつやふたつ、僕にも歌を詠んでくれたらよかったのに」
「えー、先輩のことは詠んだかな・・・内緒です」
その日は3つある寝室のうちひとつずつを分け合って、余った一つの部屋は荷物置き場にした。僕は旅行中にたまった洗濯物を洗ってその部屋に干した。彼女はいいというのにそれを手伝ってくれた。
「夜中に寂しくなったらこの部屋に集合しましょ、って言おうと思ったけど、こんなに洗濯物に占領されちゃった・・・」
彼女はきっと冗談で言ってるはずなので、本当はそこですぐにつっこむべきだったのだ。けれども僕は思った以上にドキドキして、それにうまく反応できなかった。
「どうせならそれも歌で詠んでくれればいいのに」
しばらくたったあと、ようやく発した僕のその言葉に対して彼女はこう言った。
「いいんですか?私が先輩に向けて歌を詠んだら、返し歌を送ってもらうのがルールですけど…」
東川の夜はあっけなく更け、そしてあっけなく朝がやってきた。窓を開けてもここからは直接見えなかったけれど、きっと旭岳もくっきり見えていそうなよく晴れた朝だった。
町の小さなベーカリーで焼き立てのパンを買ってきて、ふたりで食卓で向かいあって食べた。僕が淹れたコーヒーがおいしいと言って彼女は2杯もおかわりした。木造のダイニングチェアは昨日からとても座り心地がよくて、一度座ると立ち上がりたくなくなった。
僕が洗濯物を干していたハンガーラックをかたずけ、彼女がキッチンで食器を洗い終わると町役場にカギを返さなくてはならない時間になった。北海道らしい重くてぶ厚い玄関のドアを閉め、ガチャンというロックの音が重く響くと、ちょっと不思議な感覚が僕を襲った。やっぱりホテルのチェックアウトの方があっさりしてていいな、と思った。
その日は東川から層雲峡を通り、三国峠を越えて帯広までドライブした。彼女は帯広に住む友達の家に泊まり、僕は帯広駅でレンタカーを返して、列車で札幌に戻る予定だった。
前日までの酷暑がうそのように、この日は北海道らしい夏で、高原の木立の中に入ると半袖では少し涼しすぎるくらいだった。8月中旬だというのに、空がぐっと高くなったような気がした。あとひと月もすると神々の遊ぶ庭と言われる大雪山が真っ赤に染まる。
層雲峡で車を停めて一休みし、売店をのぞいていると、先輩も一首作ってください、と彼女が言った。昨日から、いずれ返歌しなければならない時が来るような気がして、ベッドの中でイメトレはしていたが、歌を詠むなんて中学校の国語の授業以来だったので、そう簡単には行かなかった。
いつまでも昭和のような層雲峡 木彫りの熊がめっちゃ売ってる
見たままをそのまま歌うと、彼女は楽しそうに声を立てて笑った。
「先輩のそのまっすぐな感性、きらいじゃないです・・・あ、わたし、めちゃめちゃ上から目線でコメントしてますけど」
そう言って彼女はこんな返し歌を詠んだ。
神々の遊ぶ庭という谷を行く 寒いねと腕につかまってみる
「え?腕になんかつかまってないじゃないか」
僕がそういうと、和歌は事実をうたうだけじゃないんです、と彼女が応えた。並んで歩くふたりの肘がちょっとだけ触れたような気がした。
上川と北見、十勝にまたがる三国峠を十勝側へと越えて、僕たちは帯広に向かった。途中、かつてこのあたりを走っていた国鉄士幌線の廃線跡があった。
ここは僕が大学時代にバイクで通った懐かしい場所だと話すと、彼女は行ってみたいと言って車を降りた。そして今も残る幌加駅遺構の線路の上を歩きながらこんな歌を詠んだ。
泣きそうなほどに国鉄幌加駅 いつかのあなたに会えた気がした
老朽化による崩壊が今も続き、いずれ朽ち行く運命にある鉄道遺構「タウシュベツ橋梁跡」。湖の水位によってその姿を見せたり水没したりするため、幻の橋とも言われているが、帯広に向かう国道沿いにそれを望むビュースポットがあった。
車を停め木立の中の小径をすすみ、展望台に着くと、運悪くそれは湖の底に沈んでいた。次は先輩の番です、と彼女が言った。
タウシュベツ君の前では隠れてたけど 朽ち去る前にリベンジするよ
今度は少しうまくうたえたような気がした。
返し歌があるかと思ったが、彼女は展望台の手すりにもたれてただぼんやりと湖を見ていた。
帯広駅に着いたのは、午後5時半を過ぎた頃だった。三国峠を越えて十勝側に入ると少しずつ空が暗くなり、帯広に着く直前から細かい雨が降りだしていた。晴れが多くていつもは明るくおおらかな帯広が、今日はしっとりとした町に見えた。
友達の家にはまだ行かなくてもいい、と彼女は言った。
友達はまだ帰ってないの?と聞くと、夏休みだから家にはいると思うけど、と答えた。
レンタカーを返す店の前まで来たが、閉店はまだ2時間以上先だった。そのあとでも最終列車には間に合いそうだった。せっかく帯広で夜を過ごすのなら、ばんえい競馬を見せてあげたい、と思った。今から行けば、ちょうどナイターが始まる時間だ。
駐車場に車を停めて、一つしかない小さな折りたたみの傘に入って競馬場まで歩いた。今度は肘だけでなく肩も触れた。
ナイターの明かりが灯された競馬場は、雨に濡れていつもより輝いて見えた。ふたりで1レースだけ馬券を買った。それは当たっても当たらなくてもどちらでもよかった。スタジアムの一番上に座って、走る馬をぼんやりと見ている時間が尊いもののように思えた。
一本の傘に無理やり入る夜 ばんえい競馬きらきら光る
この旅の最後に歌を詠んだのは彼女だったが、僕が詠んでもこんな歌になるような気がした。
再び帯広駅まで彼女を送った。
駅前のロータリーに車を停めて彼女の方を見ると、僕は何か忘れものをしているような気がした。ここで気の利いた歌でも詠めたなら、きっとそれは解決するような気がしたが、そんなにうまい具合にはいかなかった。
彼女も何か忘れものがあるようなそぶりで、なかなか車から降りなかった。
「まだまだですね、こんな時に限ってなにも出てこない」
しばらく黙ってダッシュボードを見つめていた彼女はそう言って膝の上のバッグを抱えなおした。
「歌なんてずっと忘れてたんですけど、昨日急に思い出したんです、15年ぶりくらいに。それで気づいたんです。あ、わたしずっと歌なんか関係ない生活をしてたんだなって」
でもこれをきっかけに歌、また少し詠めそうな気がしてきました、と彼女は言った。そして、ありがとうございました、と意を決したように車を降りた。
レンタカーを返して、札幌行きの最終の特急列車に乗り込むと、僕はようやく忘れものが何だったのかに気づいた。
歌なんか詠めなくてもよかったのだ。僕は彼女をしっかり抱きしめるべきだったんだ、と思った。こんなに別れ難い旅をしたのに、僕は何も伝えずに彼女を帰してしまったのだ。
列車が動き出すと、スマホのメッセンジャーが彼女からのメッセージの受信を伝えた。
タウシュベツ沈む湖畔の展望台 手すりにもたれキスを待ち居り
一枚の壁の向こうに君がいて 寝室なんてひとつでいいのに
さっき出てこなかった歌です。あとだしじゃんけんみたいでごめんなさい。でもとても楽しかったです。
東川も、先輩との旅も、また行きたいな。
返し歌は、いつかもしそんな機会があれば詠んでくださいね。
<了>
この作品を、トラベルjpや肥後ジャーナル、noteなどで活躍しているライター、羽田さえさんが、ヒロインの目線で書きなおしてくれました。
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