話したいことがあるの。
なんとなく予想していた通り、彼女からそう声をかけられたのは、1986年の10月の体育の日が過ぎたころだった。大学の学食近くのロビーにあるテレビでは、日本シリーズで西武ライオンズの工藤が延長で自らサヨナラヒットを打って4連敗を逃れ、逆転優勝への望みを首の皮一枚つないで飛び上がって喜んでいた(このあとライオンズは本当に広島に4連勝して逆転日本一をなしとげることになる)
僕は重苦しい気分でソファから腰をあげて、先を歩く彼女の1歩半ほど後ろを追って校内のメインストリートから外れた深い森の中へと黙って続いた。
彼女が見知らぬ男と楽しそうに歩いているのを見たのは、その3日前のことだった。
風邪で寝込んでしまった友達のピンチヒッターで、僕は急遽札幌の地下街の通行量調査のアルバイトを引き受けることになり、左手にカウンターを持ち、目の前を通り過ぎる人々の数を機械的にカウントしていた。
最初にその姿を見かけたとき、僕は自分が夢の中にでもいるのかと思った。いつも僕の隣を歩いているはずの彼女が、僕以外の男と、今まさに僕の目の前を歩いて過ぎ去ってゆこうとしていることが全く信じられず、とうてい現実の出来事とは思えなかった。
しかしそれは紛れもない現実だった。もともと168cmもある彼女が、やや首を右斜め上にして見上げるほど身長が高く、ちょっと長めの髪をごく自然にウェーブさせた、大人びた男が彼女と肩を寄せ合うようにして微笑んでいた。
実はそのあとのことを僕は今でもあまりよく思い出せない。
ただ、もうアルバイトどころではなくなって、近くの公衆電話から手当たり次第に友達に電話をかけ、代打の代打を依頼して、地下街から抜け出したことだけは覚えている。
「あれは私と同じ軽音部の先輩だから」
その晩、僕が二人の姿を見たことを伝えると、彼女は受話器の先で一瞬、少し動揺したような気配を漂わせたものの、すぐにそう言った。
「たまたま帰りの時間が一緒になって駅まで一緒に行ったついでに、ちょっとお買い物に付き合っていただけだから」
心配することはない、と何度も繰り返されて、結局、僕は受話器を置いた。
けれども、よかった、勘違いだ、と思おうとすればするほど、不安は高まってくるのだった。
思いを寄せ合った同士ではないと醸し出せない雰囲気、というものがあるとすれば、昼間の二人にはそれが確実にあるように思えたからだった。
灰色にどんよりと曇った空の下、教養学部と工学部の間の路を野球場や付属農場のほうに向かって奥に進むと、札幌駅から1キロほどしか離れていないのが信じられないほどの原生林が広がっていた。校内の木々はもうすっかり色づいて、道端に寄せられた枯れ葉が長い一本の線のように連なっていた。
「私の心の中に二人のひとがいるの」
ほら、やっぱり来た、と思った。
「半分はもちろんあなたなんだけど、もう一人はこの間の先輩なの」
ふたりは全く同じ大きさで、彼女の心の中のスペースを占めているのだ、と彼女は言った。
そんなことはないよ、と僕は言った。
もともとそこは僕がいた場所だったんだ。あとから来てあっという間に半分も占められたら、遅かれ早かれやがて居場所がなくなってしまうのは、いくら僕でもわかる。
そうかもしれない、と彼女も言った。
「本当にごめんなさい。でもあなたのこともすごく好きなんだよ」
そう言われたとき、今まで張りつめていたものが一気に崩れて、僕の中から何かがごそっと抜け出してしまい、その場に座り込んでしまいそうなほどの無力感が僕を襲った。
大学入学。夢にまで見た北海道、初めての一人暮らし。
教室の隅っこで見つけた背の高い女の子。くりくりの大きな瞳。ときどき見せるびっくりするくらい短いスカート姿から伸びる、まっすぐで長い脚。
本州より1か月以上遅い花見、ジンギスカン。ポプラやエルムの新緑。
銭函や小樽の海岸、たき火。支笏湖の透明な水。
夏のニセコでの肝試し、羊蹄山。彼女の住む小樽の町並み。
僕が不覚にも涙をこぼしそうになってその場に立ち尽くしていると、突然、彼女があっ、と声を上げた。
「雪虫が」
彼女はそう言って僕の黒いジャケットの袖にそっと手を添えた。
彼女の指先には3ミリほどの白い羽虫がとまっていた。
「雪虫?」
「そう。毎年秋の終わり頃にやってくる小さな虫。雪虫が舞い始めると、もう雪が近いので、どこからか雪を運んでくる虫なのよ」
あなたは内地の人だから初めて見たのかもしれないけど。
彼女はそう言ってそっと僕の袖を振った。
雪虫はちょっとどまどったように2,3歩僕の袖の上を歩くと、やがて意を決したように飛び立っていった。
見上げた空に、たくさんの雪虫が飛んでいる、と思ったら、それは北海道の長い冬のはじまりを告げる、その年初めて降り出した本物の雪だった。
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僕が初めて雪虫をみてから3年ほど経った秋、札幌市内のミニシアターで『雪虫の頃』という映画が上映されるという話を聞いた。
隣の大学の映画研究会に、数々のアマチュア映画祭で賞を受け、学生ながらも将来を嘱望されている男がいた。『雪虫の頃』は彼が制作した初めての興行映画だということだった。
僕は当時、自主映画をつくるサークルに所属していたので、彼の活躍はもちろん知っていたのだが、自分たちは大学の公式な映画研究会でもなく、遊び半分の気楽なサークルだったので、特に注目したり彼の作品を観に行ったりすることはなかった。
特にこの作品はタイトルがタイトルなだけに、僕にとってはようやく癒えた深い傷口を広げるようで、あまり観に行きたいとは思わなかった。
それでもどこからかチケットをもらったサークルの友達に強く誘われて(一緒に行く予定だった相手が急に来られなくなったらしい。そう、このときもまた代打だった)、札幌市内の小さな映画館で行われたその試写会と記念イベントに渋々行くことになってしまったのは、やはり10月中旬のどんよりと曇った日だった。
オープニングでスクリーンに映し出される女優のうしろ姿を見て、3年前、地下街で彼女が見知らぬ男と歩いていた時と同じような感覚がよみがえった。
彼女がこんな映画に出ているはずがない。
しかし現実にこうして映し出されているその見覚えのあるうしろ姿は、彼女に違いなかった。
またもや僕は混乱した。だから映画の細かなストーリーは今でもよく思い出せない。
ただ、彼女はかなり汚れた役をこなしていた。あまりタチのよくない男にうまくだまされて、ススキノの夜の店で働く女を演じ、そこには何人かの男との交わりもあった。
しかしそれは僕にはもう関係ないはずのことだった。彼女はあの日、雪虫とともに僕のもとを去ってしまったのだ。今さらどこで何をしようと僕は何もいうべきではない。
それでもこの場からすぐに立ち去りたかった。やっぱり来なければよかった、と思った。
しかし腰が上がらなかった。あの別れの日と同じように、心のどこかに必死で押し込み続けていた何かが、僕の中からまたごそっと抜け出してしまい、僕は無力にも立ちあがることさえできなかった。
「あの雪虫の日に」
映画のラストシーン近く、スクリーンの中で彼女がそう言っていた。
「もどりたい」
それは僕のほうだ。あの時彼女を引きとどめなかったことを、どれだけ悔み続けていたか。
映画が終わると、例の僕たちと同世代の監督、そして出演者がスクリーンの前に登場した。
その中には、もちろん彼女の姿もあった。
肩までだった彼女の髪は、背中を覆い隠し、まもなく腰まで届きそうなくらいになっていた。あの頃、くりくりとよく動いていた瞳は、心もち落ち着いて、それが彼女をとても大人びてみせていた。
僕は会場の後ろのほうで彼女から身を隠すようにその様子を眺めていた。
頼むから今の僕の、この情けない姿を見ないでくれ。そんな思いだった。
「これは私の自伝的な作品でもあります」
彼女がマイクを通してそんなことを語っている。
「ススキノのお店で監督に声をかけてもらわなかったら、私は今頃もう北海道にもいられなかったかも知れません」
「映画の中だけでも、あの雪虫の頃に戻れたら、きっとやり直せる、と思ってこの作品に出ることにしたんです」
目を瞑ってそんな彼女の言葉を聞いている僕のほうへ、誰かがまっすぐ歩んでくる気配を感じて顔をあげる。
会場前面のスクリーン前を照らしていたスポットライトはもう彼女を追いきれず、会場内の薄暗い灯りの中、記憶の中から取り出したばかりのようにぼんやりとしていた彼女の顔が、次第に鮮明になる。
そのとき、どこからともなく1匹の雪虫が、頼りなさそうにふわふわと僕と彼女の間に舞いこんでくる。
雪虫があの時と同じように僕のジャケットにとまると、彼女は再び僕の袖にそっと手を添えてこう言った。
ねえ、今度は絶対に飛んで行ったりしないから。
だからこのままそっと私の手を引いて、もうどこにも逃げないように、どこか遠くへ連れて行って。
外に出ると、空をたくさんの雪虫が舞うように、また、その年初めての雪が降り始めていた。
<了>
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