久しぶりに一人きりの週末だったので、ふと思いたってお花見に行ってきました。
東京から北へ電車で2時間。
古い神社の裏山の頂にたったひとりでひっそりと立つ、大きな桜の老木です。
参道の桜並木はまだ1,2分咲きで、本格的なお花見は来週以降ということもあり、人影はほとんどありませんでしたが、僕はかまわず奥へ奥へと進み、裏山へと抜ける緩い傾斜の砂利道を登っていきました。
小高い丘の上のような、山の頂近くに出ると、その古桜はありました。
誰よりも先に、満開の花を両手いっぱいに湛えて。
そう、あの頃と同じように。
高校2年生のとき、僕のクラスに交換留学生がやってきました。
グレンという名前のハワイからやってきた男の子でしたが、彼は毎年やってくる留学生とは明らかに違っていました。
まずだいいちに、彼は日本語がペラペラでした。
それは彼の母親が日本人だったからです。
それに、見てくれが今までの留学生とは全然違いました。
留学生と聞いて僕たちが想像するような、色白で金色の髪をした細長い男の子たちと違って、彼は浅黒い顔に度の強そうな眼鏡をかけた、ずんぐりむっくりの体型をした男でした。
だから留学生というよりは、どこかの山奥から平地に出てきた転校生のようにも見えました。
2学期の初日に、突然やってきた彼の第一印象は、クラスのみんなには滑稽でへんてこな日本人のようには見えたかもしれないけれど、なかなか悪くなかったんじゃないかと思います。
でも不幸なことに、最初の体育の時間で起こった事件をきっかけに、彼は早々にクラスから孤立してしまったのです。
その日の体育の競技はラグビーでした。
ハワイの高校でアメリカンフットボールをやっていた彼は、ちょっとしたラフプレーをきっかけに、クラスに何人かいるラグビー部の連中といさかいを起こしてしまったのです。
当時、僕たちの高校のラグビー部は全国大会の常連で、ラグビー部員の影響は、それは強力なモノでしたので、彼に話しかける人間はほとんどいなくなってしまいました。
その日以来、彼は休み時間も、いつもクラスの席にひとりぽつんと座って、ウォークマンを聞きながら目を閉じているばかりでした。
学校の裏にある神社の、小高い丘の上に彼が座り込んでいるのを目にしたのは、事件から何日かが過ぎた、ある日の放課後でした。
誰もいない音楽室に忍び込んで、ドラムを叩いていた僕がふと窓の外に目を向けると、彼がいつものようにイヤフォンを耳にして、じっと座っている姿が目に飛び込んできました。
「こんなところで何してるの?」
丘を登りきったところで僕がそう話しかけると、彼は不思議そうに僕を見上げました。
一応最初は英語で話しかけるべきだったのかな、と思っていると、彼は耳からイヤフォンをはずしながら流暢な日本語で言いました。
「ねぇ、この木は桜なんだよね?」
そう、彼が寄りかかっている1本の古い大木は、桜でした。
3月の終わりから4月のアタマにかけて、春の遅いこのまちでは僕が知る誰よりも早く花開き、誰よりもゆっくりと散ってゆく、孤高の1本桜でした。
「是非桜の花を見てから帰ってきなさい、とお母さんに言われてるんだ」
彼のバッグの中には恐ろしい数のカセットテープが入っていました。
それも、僕にはなかなか手に入りそうもない、アメリカの珍しいロックアルバムばかりが。
僕はいつの間にかそこに座り込んで、彼が話す夢のような異国のレコードショップやTVのミュージックチャンネルの話に心奪われていました。
それ以来、その桜の木の下が、放課後の僕とグレンの待ち合わせ場所になったのでした。
「ねぇ、僕が住むホストファミリーの家には僕らと同じ年の女の子がいるんだよ」
ある日、突然グレンがそんなことを言いました。
「うそだろ?男の留学生と同じ年の娘を一緒に住まわせる親なんかいるの?」
グレンによると、彼のホストファミリーは大学の先生で、毎年必ず留学生を受け入れている、ということでした。そのためにわざわざ母屋から離れた別棟に留学生用の部屋まで作っているのだ、と。
「一人じゃなかなか声をかけにくいから、今度一緒に彼女を誘ってくれないかな?」
彼女は僕たちの隣の女子高に通っている、色白で、とても美しい声を持った女の子でした。
彼女の両親がいない隙を狙って、ある日、僕が帰宅直後の彼女に声をかけると、彼女はあっさりと母屋から、別棟にあるグレンの部屋まで遊びに来たのでした。
彼女はそのおとなしそうな外見とは違い、無垢なのか大胆なのか、パジャマ姿にカーディガンを羽織っただけで夜中に部屋を抜け出して、よく僕とグレンのところまでやってきました。
そうして空が白むまで話し込み、時にはグレンの部屋の狭いコタツで3人で朝まで眠り込んでしまうこともありました。
グレンは口にこそしなかったけれど、明らかに彼女に好意を寄せているようでした。
彼女がグレンのことをどう思っているかはわからなかったけれど、こんなふうに僕たちのところへ頻繁に遊びに来るくらいだから、まんざらではないのかもしれないな、と思うこともありました。
僕があの部屋に行かない日も、彼女はああしてあの部屋に遊びに行っているんだろうか?
僕は一人になると幾度となく、そんなことを想像していました。
彼女の細くて長い首。小ぶりなお椀のような乳房の頂にある、つぼみのようにまだ固い乳首。
つるりとして滑らかな白い尻が、誰かの浅黒くて逞しい肉体の上でうごめいている。
でもそれが本当にグレンなのかどうかは暗闇が深すぎてわからない。。。そんな想像を。
「ねぇ、僕が帰る前に桜は咲くのかな?」
年が開け、暦の上では春になる頃から、グレンは何度となくそう口にするようになりました。
3月末の彼の帰国までに、春の遅いこの町で桜が咲くのか、僕には確信が持てませんでした。
「普通の桜は咲かないけど、あのいつもの桜だけは咲いてくれるんじゃないかな」
「そうだといいけど・・・」
グレンは3月に入る頃から急激に口数が少なくなっていました。
放課後も僕をめったに部屋に呼ばなくなり、ひとりで帰ってゆくことが多くなっていました。
ときおりグレンの部屋に遊びに行っても、以前のように彼女が遊ぶに来ることがぱったりと途絶えてしまったため、彼に何があったのか、彼女に聞くこともできませんでした。
春はちょっと近づいたと思うと、すぐにまた遠ざかり、もどかしいくらいにゆっくりと一進一退を繰り返していました。彼岸に前後して、春らしい陽気が数日間続き、桜のつぼみの硬い殻もようやくほころびはじめるんじゃないか、と期待したと思うと、すぐにまた冷たい風がそれを打ち消すように北から強く吹き付けてくるのでした。
3月29日、僕たちの高校2年の終業式の日は、同時にグレンの最後の登校日でもありました。
前日からのみぞれまじりの雨が朝から降り続く中、グレンは来たときと同じようにひとりぽっちで教室の前に立ち、言葉少なに別れの挨拶をしていました。
僕は教室の窓から外を眺め、裏山にある古桜のことをぼんやりと考えていました。
本当はすぐにでも丘の上に駆け上がって、そのつぼみがどうなっているのかを知りたいと思っていました。
でもその勇気は僕にはありませんでした。
このままグレンが桜のことなんてすっかり忘れて、これ以上がっかりすることなく帰っていってくれないかな、と、そんなことばかりを考えていたのでした。
「あした、もし桜が咲いていたら、僕を呼びに来てくれないか?」
帰り道、グレンは突然そんなことを言いました。
「夜10時のフライトで日本を発つから、お昼までに呼んでくれたら間に合うと思うから」
そう言って彼は笑いました。彼の本当に楽しそうな笑顔を見るのはずいぶん久しぶりのような気がしました。
「あ、そうだ、そのときは彼女も忘れずに誘ってくれよな」
カーテンの隙間から射す、細くて硬い光のスティックで目が覚めました。
前の日の夜、なかなか寝付けなかった僕は、部屋のコタツの中でそのまま眠り込んでしまっていたようでした。
午前11時25分。
時計を見て飛びあがり、慌ててカーテンを開けてもっと飛び上がりました。
春が、まばゆいばかりの春が、そこにやってきているのがわかったからでした。
もう裏山に行くこともせずに、直感だけで、僕は走り出していました。
2階の部屋の窓ガラスに小石をぶつけると、まるですべてわかっていたかのように支度をした彼女が、すぐにグレンの部屋の前まで出てきました。
「急げグレン、桜だ!」
考えてみると、こうして3人でこの桜の木の下に来たのは初めてでした。
グレンも彼女も、そして僕も、何も言わずに桜の老木に寄りかかって、がっしりとはりめぐらされた節の多い枝を見上げていました。
いつまでもそうしていると、春の空が薄桃色に見えました。
「もし10年後に、みんな寂しく独りモノだったら、またここに集まろうか?」
僕が冗談でそう言うと、グレンはちょっとびっくりしたような顔になって言いました。
「ホント?ホントにそうする?」
彼女は黙って笑っていましたが、その顔はYESと言っているようにも見えました。
寂しくなるから見送りに来なくていい、とグレンはひとり、丘を下っていきました。
グレンに笑顔が戻ったことで、僕はなんだか急にほっとしてしまい、だんだんと小さくなってゆく彼の背中を見送りながら不覚にも涙が出そうになって、必死でこらえていたからでしょうか、
「10年後のはなし、ホントなの?」
と言った彼女にYESと答えたのか、NOと答えたのかは、今でも覚えていません。
<了>
コメント