水戸からJRで30分ちょっとのところに常陸太田というまちがあります。
以前、仕事でこのまちの方と知り合いになり、いろいろ話を聞いているうちにいつか行ってみたいと思っていたのでした。
佐竹藩の城下だった古くて渋い町並みもあるらしいのですが、あんまり知られてなくて、さすが都道府県魅力度ランキング47位の茨城県(当時)!と思ったんだけど、意外とのびしろあるよこの町!
鯨のかたちの鯨ヶ丘
常陸太田は、水戸と郡山を結ぶJR水郡線の、本線ではなく途中から分岐する支線の終点にあります。
常陸太田駅は改装されて新しく、三角屋根が特徴的な建物になっています。
なんとなく国技館みたいですね。
常陸太田の旧市街は、駅前から緩やかな坂を上った先、鯨が丘と呼ばれる地区にあります。
鯨が丘とよばれているのは、その名のとおり鯨のような形の町だから。
4世紀頃、日本武尊が東夷征伐のためにこの地を訪れた際、この丘の起伏があたかも鯨が海の上で浮かんでいるように見えたため「久自(くじ)」と名付けたと言われています。
この常陸太田より奥の山間部を、奥久慈(おくくじ)と呼ぶのもこの「鯨」と関係があるのでしょうかね。
鯨が丘の入り口の広場にあるくじらのモニュメント。
こんな感じの鯨の背中の部分に旧市街が広がっているイメージです。
坂を上りきったところで道は二股に分かれ、その2本のメインストリートに沿って旧市街が広がっています。
こっちが西側のメインストリート。
古い建物が多くて落ち着いた感じなのが西側。
こっちが東側のメインストリート。
商店街としてやや賑やかなのが東側。
常陸太田中心街の町並み
鯨の背中に上り、まずは西側の通りを進みます。
これは薬屋さんの壁にはめ込まれた看板。
一番右の龍角散はわかるけど、その隣は「猫イラズ?」
なんか怖い名前ですが、これは昔の殺鼠剤で、結構毒性の強いものだったとか。
これは常陸太田の郷土資料館梅津会館。
昭和53年までは常陸太田市庁舎として利用されていた、由緒ある建物だそうです。
そのまま先へ進むと、常夜灯のある交差点が。
このあたりが常陸太田の古い街並みの写真で、一番よく出てくる場所でしょうか。
向かい側には立派な白壁の建物がありますが、震災の影響でしょうか、屋根が崩れて補修されています。
地図を見ると常陸太田市郷土資料館分館となっていますが、たぶん中には入れないでしょうね。
その横にあるのは十王坂と呼ばれる坂。
常陸太田には、高台の鯨が丘に登るためのいくつもの坂があり、そのうちの主なものを太田七坂と呼んでいます。
鯨ヶ丘では湧水が多く湧き、その湧水を利用した井戸がたくさんあるので、太田には七坂のほかに太田七井(井戸のこと)もあるみたいです。残念ながら今回は見つけられなかったのですが。
鯨(が丘)の頭のほうから背中の一番奥あたりまで行き、しっぽの手前のくびれのところに出ると、坂の下に常陸太田の新しい市街が見下ろせます。
今回は尻尾のほうには行かず、ここから折り返して東の通りを戻ります。
東の通りは、古い建物をそのまま活かした商店が並びます。
東の通りの中心に建つ、くじら屋。
ここは無料休憩所として商店会が用意した施設で、「くじら焼き」というくじらの形をした、鯛焼きのようなスイーツも売ってるらしいのですが、朝早かったのか、まだやってない感じ。
このクジラ屋の上の看板には、かつて佐竹氏の城下町として繁栄した常陸太田の姿が描かれています。
佐竹義重・・・信長の野望で結構実力ある大名だったぞ。
あの佐竹の本拠地、太田城はこのあたりだったのね。
その横に絵クジラの奉納所があったのですが、まだちょっと告知不足なのか、やや過疎ってる感、否めません。
・・・うーん、ちょっと残念なお願いごと?
もちっと夢とか希望とかないのか茨城!
さてその先にあるのが「板谷坂(ばんやざか)」。
太田七坂の中でもここが一番見通しがいいためか、よく観光パンフレットでこの坂の写真が使われています。
常陸太田、かなりいい素材持ってますよ。
でも、伝統的街並み特集とかでもあまり見かけないし、ちょっと惜しいんですよね。
まさに「のびしろ日本一」?
「のびしろ日本一。いばらき県」
これは全国都道府県魅力度ランキング最下位の茨城県の当時の観光キャンペーンのキャッチコピー。
同じ北関東で下位を争う栃木と群馬は都道府県魅力度ランキングの最下位脱出に血眼になってるようですが、47位の茨城は全体的に「それでいーじゃん」的な、かなり達観した態度だと言われています。
わかる人がわかればいいじゃん。
この常陸太田も町全体がそんなふうに言ってるみたい。
そういうの、嫌いじゃないですけどね。
<2017年 1月訪問> 最新の情報は公式サイト等でご確認ください
常陸太田への旅
なんと近くにあの有名なバンジーもあります
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