東日本大震災から4年半が経過した2015年の秋、北海道の帰りに三陸沿岸を南下しながら帰ってきたことがありました。
そのとき通ったのは釜石・大船渡・陸前高田・気仙沼といった町。
いずれも津波で大きな被害を受けた場所ですが、特に僕が大きな衝撃を受けたのは、陸前高田の変わり果てた姿。
今はあの頃より復興も進み町の姿は変わっているので、旅の情報としてはもう無意味なものかもしれませんが、復興の過程でこんな姿の時もあった、という記録として残したいと思います。
変わり果てた陸前高田
その日、僕はBRT(バス・ラピッド・トランジット)と呼ばれるバスで、不通となっているJR大船渡線の盛駅から気仙沼方面へ向かっていました。
BRTは鉄道の線路跡を利用した専用の道路やレーンを走るため渋滞もなく、盛を出発して約40分間は小高い丘陵地を快調に走り続けていました。
ところがバスが陸前高田の旧市街地まで下ると、周囲の景色がガラッと変わります。
当初は陸前高田の駅(バス停)まで行こうと思っていたのですが、その手前の高田高校バス停で、思わずバスを降りてしまいました。
きれいに整地されてはいるものの、何もない土地がずーっと広がっています。
ドバイかどこかの開発地区で海を埋め立ててるんじゃないんですよ、ここ。
日本じゃないみたい。4年半過ぎてもまだ、こんな状況なんですね。
そして遠くに、この膨大な土地をかさ上げするための土を運ぶ、巨大なベルトコンベアー群。
あの近くまで歩いて行きたいんですが、復興工事のため、道路は工事関係者以外封鎖され、ずっと遠回りをしないとなりません。
これも、日本じゃないみたい。
これからピラミッドを作ろうとしているかのような、巨大な盛り土です。
このあたりのかさ上げの高さ、14m。これを見渡す限りの広大な範囲で行うのです。
まるでミニカーのように見えるダンプカーが、数珠つなぎで稼働しても、気が遠くなるような時間がかかるように思えます。
恥ずかしながら、復興過程の現実を、初めて身をもって知りました。
僕は偶然震災直後の石巻に行ったのですが、そのとき10年でも厳しいかもしれない、と思ったことなんてすっかり忘れて、もっとずっと復興が進んでいるのだと勝手に思い込んでいたのでした。
クールで巨大なベルトコンベア群
ピラミッドのように高くかさ上げされた造成地を左手に見ながら海岸方面へ進むと、やがて前方に巨大なベルトコンベア群が見えてきます。
それはまるで川崎や四日市の工場群を見ているかのよう。
これは中心市街地のかさ上げ工事のために作られた総延長約3kmの土砂運搬用ベルトコンベア。
1日に10tトラック4千台分の土を運び、これによりトラックだと10年かかる作業が2年に短縮されるのだそうです。
このコンベア群と、特にこのコンベアが気仙川を渡る吊り橋部分は、陸前高田市の小学生たちにより「まちの復興と未来への架け橋になるように」との願いを込めて「希望のかけ橋」と名づけられたのだそうです。
そして奇跡の一本松と希望のかけ橋
震災前には約7万本といわれる松が生い茂っていた高田松原。
その中で、震災後、唯一残ったのが奇跡の一本松。
国道45号から歩行者専用道路に入って歩くこと約10分、ようやくその姿を現しました。
海水の影響などにより、残念ながら枯死が確認された奇跡の一本松。これはそのレプリカなんですね。知りませんでした。。。
一本松のすぐ横にあるこの建物は、陸前高田ユースホステル。
震災時はすでに休館だったため、人的な被害はなかったようで、この建物も一本松とともに震災遺構として保存されることになっているそうです。
この奇跡の一本松に行く歩行者専用道路の上にも、このベルトコンベアが何本も走っています。
奇跡の一本松を見に行ったらベルトコンベアが凄かった、という声も実際にたくさんあったようなのですが、これをカッコいいとか、クールだ、とか言うのは不道徳なことなのかな、と思っていたところ、どうやらそうでもないようです。
当時の陸前高田の関係者によると、これも観光目的の一つとして訪問が増えてくれるのなら大歓迎、というスタンスだったようです。
そんなわけで、声を大にして言います。
チョーカッコいい!
しかし残念なことに(と言ってはいけないのだろうけど)合計約500万立方メートルの土砂を搬出したベルトコンベアはその役目を終えると解体とされ、撤去されてしまいました。
僕が行ったのはちょうどその解体前の頃だったのです。
でもたとえ「希望のかけ橋」がその姿を消しても、このクールでワイルドな姿は、復興への願いとともに忘れないでいようと思います。
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