ここは間違いなく日本で一番美しい炭鉱遺産だ。
廃鉱当時のままの広大な炭鉱施設の中を歩きながら何度そう思ったことでしょうか。
長い時を経て、いつの日か朽ち果てていくの待つかのように残された、武骨で無口な炭鉱器機。そしてそこにしみ込んだ、言葉にできない数々の記憶。そのどれもがこのうえなく美しく思えたのです。
そんな「旧住友赤平炭鉱立坑櫓」と、隣接する北海道赤平市の「赤平市炭鉱遺産ガイダンス施設」を紹介します。
「赤平市炭鉱遺産ガイダンス施設」とは
かつての北海道の炭都のひとつであった赤平市。最盛期には22の炭鉱があり、6万人にも迫る人々で賑わった赤平も、現在は人口1万人にも満たない小さな町となっています。
その赤平に、今もなお廃鉱当時の姿のままで残されているのが「旧住友赤平炭鉱立坑櫓」。
その「旧住友赤平炭鉱立坑櫓」に隣接して、赤平の貴重な炭鉱遺産を紹介する施設として2019年にオープンしたのが「赤平市炭鉱遺産ガイダンス施設」です。
ここには赤平市炭鉱歴史資料館から移設した約200点の炭鉱にかかわる資料が展示されていて、入場は無料。
まあこんな感じの資料館は他の炭鉱都市にもあるのですが、この「赤平市炭鉱遺産ガイダンス施設」がすごいのは、こんなイケメン炭鉱マンがいる、というところ。
キミ、だれやねん?
違いました。この「赤平市炭鉱遺産ガイダンス施設」がすごいのは、実際の炭鉱マンだった方と一緒に廃鉱当時の姿のままの炭鉱施設内に潜入できるガイドツアー(赤平市外在住者は1回800円)があることなのです。
もちろん僕の今回の訪問目的はこれ。炭鉱廃墟内に公式に入れるところなんて、おそらく日本で唯一でしょう。
いざ「旧住友赤平炭鉱立坑櫓」内へ
ガイドツアーは基本10時と13時からの1日2回。最初に会議室で簡単な説明を受けると、全員ヘルメットをかぶっていよいよ旧住友赤平炭鉱立坑櫓内へと向かいます。
そして施設内に入った瞬間、目の前に現れる景観がこれ。
めちゃめちゃカッコいい!
こんなところホントに入っていいの?って感じですが、いいんです!
この旧住友赤平炭鉱立坑櫓は、昭和40年代、海外からの安い石炭輸入品により国内の炭鉱が次々と競争力を失っていく中、大量採掘による合理化での生き残りをかけて造られたもの。
立坑というのは地下深部で採掘を行うために垂直に掘られた穴のことで、ここは当時東洋一といわれるほど大型で深い立坑でした。
構内にはりめぐらされた線路は石炭を運び出すトロッコのためのもの。
巧みに傾斜が付けられ、立坑から採掘された石炭を乗せたトロッコは地上に着くと、自動で動くように設計されていたということです。
立坑櫓の操作室にも入ることができます。
黒や緑のダイヤル式電話はもちろんのこと、カレンダーも閉山当時のものが飾られています。
1994年というと今からもう30年近くも前のことですが、僕も1991年まで北海道に住んでいたので、そのころはまだ現役だったんですね。
赤平の町はもうその頃から元気がなくなっていたので、ここも終末期に近かったのだと思いますが。
目に見えないものを紡ぎ出す元炭鉱マンガイド
今回、というかこのガイドツアーでほとんど毎回ガイドをしているのが、元炭鉱マンの三上さん。
三上さんは、高校卒業とともにここの採炭現場に入り、炭鉱内で編成された「救護隊」も兼務、事故が起きた際には真っ先に駆け付ける役目も担っていたと言います。
その後、保安員や現場監督を長く務めましたが、1994年、赤平で最後まで残っていた住友炭鉱も閉山となり、炭鉱マンとしての役目を終えたのだそうです。
自身の経験から紡ぎ出される三上さんの説明はどれもリアリティがあります。
とたえば、炭鉱マンたちが地下の坑道に向かうために簡素な鉄格子でつくられたエレベーター「立坑ゲージ」。
当時は合理化で、たくさんの鉱員を早く採掘場まで輸送しなきゃならなかったんで、4階(段)建てのゲージを作って、1段に18人がぎゅうぎゅうに乗り込むんですよ。
それが秒速12mのスピードで降下して、合計72人が地下615mまで1分もかからず到着できるんだけど、秒速12mって早いんですよ。気圧の差で耳がどうにかなっちゃいそうでね。
そんな話を聞きながら、実際に狭いゲージに乗り込むと、この鉄の柵だけで箱にもなってない物体が、今にも動き出して地下深くまで落下するかのように感じるのです。
炭鉱の歴史、最盛期の活気ある日々、子供たちの笑顔、閉山前の緊迫した状況、そして炭鉱事故。
三上さんから紡ぎ出されるストーリーは、目の前に並ぶ錆びついた炭鉱設備の説明だけではありません。時にユーモラスに、時にはっとするような鋭い視点で当時の状況から現代の課題まで語ってくれるのです。
三上さんは、今はもう言葉を発することをしない廃鉱跡から、数々の記憶を再びよみがえらせる伝道師なのかもしれません。
自走枠整備工場見学へ
立坑櫓のガイドが終わると、希望者は少し離れた場所にある「自走枠整備工場」も案内してもらうことができます。
自走枠整備工場では、実際に炭鉱で使用されていた大型掘削機械等を展示していて、ここでも引き続き三上さんが案内してくれます。
こんな巨大な車両群が立坑から地下へと運び込まれ、地中で作業していたのを知ると、当時の採掘技術のすごさを改めて感じます。
これらの車両は、触っても運転席に乗り込んで写真を撮っても自由。もちろんしっかりとした安全確認は行っているのでしょうが、「危険」という理由で多くの炭鉱遺産は遠巻きに見ることしかできないので、この住友赤平炭鉱遺産の希少性は特筆すべきものだと思います。
そういえば、三上さんがたびたび語っていたことのひとつに、住友赤平炭鉱の安全対策の厳重さがありました。
例えば上の写真の奧に見えるのは「メタンガスの監視機」。一般的に炭鉱ではガスの発生により重大な事故につながることが多かったのですが、こうして厳重に監視を行った結果、住友赤平炭鉱ではガス事故による死者は一人もいなかったということです。
そこまでするの、というくらい基準が厳しかった、と三上さんは冗談交じりに話していましたが、そこには長く勤めあげた会社への確固たる信頼感があったのを感じました。
安全対策をしっかりとって、思い切った大量採掘にチャレンジする。そんな社風がここに引き継がれているからこそ、今でも僕たちがこうして炭鉱資産に触れることができるのかもしれません。
僕は今回車で来ていなかったので、立坑櫓から自走枠整備工場まで三上さんの車に載せてもらうことになりました。
道すがら、三上さんのようなガイドは何人いるのかと聞くと、休みの日を除くとほぼ自分ひとりでやっているのだ、という答えが返ってきました。
いつまで続けられるかわからないが、自分がいなくなったら赤平であった出来事を伝える語り部がいなくなってしまうのも困る。元炭鉱マンではなくてもその歴史を伝えられるよう、後任のガイドを育てないと。
炭鉱の廃墟跡を「美しい」と表現するのは違和感があるかもしれません。そこは楽しい記憶ばかりでなく、かつて賑わっていた町からどんどん人が去っていく、つらくさびしい出来事も包含しているから。
それでも僕は三上さんのガイドを聞き、声なき武骨な炭鉱器機や、人通りの絶えた道から言葉にできない数々の記憶の声を聞き、そのどれもがこのうえなく美しいと感じたのです。
いつか三上さんの後任ガイドが、その声をいつまでも伝え続けてほしいと思いつつ、こう思うのです。
三上さんが現役のうちに、ぜひ一度ここを訪れてみてほしい、と。
<2023年7月訪問> 最新の情報は公式サイト等でご確認ください
「旧住友赤平炭鉱立坑櫓」「赤平市炭鉱遺産ガイダンス施設」への旅
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